黒金の戦姉妹38話 夢魘の愾昇(後半)
緋弾のアリアXXXV
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モリアーティ教授が登場したし決戦とかNの内情とか諸々、レクテイアと魔術の新情報を求めて購読。あらすじで分かっていた事ですが、今回は伏線巻となってましたね。
アリーシャのテーマとか、バローネ一家とか、旧帝ノ遣いとか、N関係キャラの行動とか。原作と被りや齟齬を起こさない参考にしようとwkwkしていたんです。
――していたんです……。
とりあえず、セーフ……かな?
原作周回しつつ創作の方も書いてみましたが、地の文がとっ散らかってまとまらず、黒川さん家のラクガキしてました。すみません……
人々が生きる現世よ! 私は帰ってきた!(ただいま、生きててよかった)
周囲を見渡すまでもない。
眠りに就く直前までの意識はハッキリとしているし、私の置かれた状況も間違いなく把握している。ヒルダの電撃でブラックアウトしたところまでですけどね。
一応気絶した私を横向きに寝かせてはくれたようだ。フカフカベッド……の近くにあった、リクライニング機能の無いソファに。右耳が右肩にピッタリとくっつく位、首がヘンな角度に折れ曲がった状態で。
倒れていたベッドに寝かせず、わざわざ移動させてくれてありがとうございました。
えーえー、泥まみれで廃棄ガス臭くて焦げ臭いですからね。すみませんでしたよーっだ。
強制的に寝違えさせられた首がピキピキと痛む。
彼女たちはすぐに治るから気にならないんだろう。種族間ギャップが恨めしい……
「あらまぁ、もう起きたの? おはよう、クロ」
「とても人間とは思えないわね……」
そしてお出迎えの一言がこれである。
目を開けた瞬間に目が合うってなにさ、監視でもされてたんですかい。どうせ大丈夫だろう的な評価の原因は私にあるのかもしれないが、多少なりとも安否を気遣って欲しいものだ。
分かっちゃいたけど読んで字の如く人でなしな方々ですよ、ホント。
けしからん格好だった2人はしっかりと黒いドレスを身にまとい、寝ている間に電気の灯された明るい室内で優雅にテーブルへ着いていた。
ひとえに同じ黒色のドレスといってもヒルダは露出の少ない割に大きく開いた胸元だけを強調するゴシックドレス、片やトロヤのイブニングドレスは肩や鎖骨がばっちり見えているのに胸周りだけはすっかり隠れてるんだよね。ヒルダみたいに目玉模様があるのかな?
んー……でも、そのくせ肌面積は多いし、あれではココらへんにありますって言ってるようなものだ。単なる好みかもね。
白いレースのテーブルクロスにひとつだけ置かれたワイングラスは中身を飲み干したのか空っぽで、空きっ腹につまめそうな類のおやつは置いていない。
「ええ、起きましたよ! この世の理不尽を絵に描いたような見るも残酷な悪夢からね!」
「まあ! 嫌な夢を見てしまったのね? でも大丈夫よ、私が付いているもの」
「えぇ……」
なにそれこわい。あなたにはもう私が憑いてるから新規契約はお断りよ、みたいな?
この無自覚な悪夢の元凶、教会に行ったらピカッと一発祓ってくれないものか。
……でもなあ、私のイメージだと、依頼主もろとも殺りに来そうなんだよね、地下教会のシスターって。
椅子から立ち上がり、怖かったのねヨシヨシと頭を撫でつけようとするトロヤから距離を取る。皮肉を皮付き肉とでも思っていそうな天然串焼き吸血鬼はさておく。
問題は蝙蝠の翼を隠した背を椅子にあずける放電吸血鬼の方だ。
「ふんっ! おはようございます、吸血鬼さん」
「その呼び方には私に対する敬意を感じないわね、クロ。強者への服従は弱者の義務よ」
駝鳥の羽根で作られた黒い扇をヒラヒラと仰ぐヒルダが眉間にシワを寄せた。
出ましたよ、とこまでが冗談か分からないお得意の
そんでもって、この中で私はダントツの序列最下位。つまり彼女の言う弱者である。
日頃のお礼も合わせて、いつかは見返してやりたい。
しかし謀反する気があっても今は我慢だ。
ソファで眠ったことにより多少の体力回復はしたものの、スイッチは温存すべきだろう。
ここは悪魔の根城。
どんな奴らが集まって、何が起こるか分からないんだからね。
「名前でお呼びなさい? ヒルダ・ドラキュリア様と――」
ヒルダはウンともスンとも答えない私の顔色をチラッチラッと窺いつつ下剋上を警戒している。
弱者の反論は認められていないらしいですし、素直な返事に殺人未遂の現行犯に向けた小さな抵抗を込めることにしよう。
「はいはいあーはいはい」
「……どうやら文句があるようね?」
「ないないあーないない」
すると、その返答から反抗の意思アリと受け取ったらしいヒル・ドラ様はチラ見を止め、ギギンッと吊り上げた紅寶玉色の瞳で睨みを利かせてくる。おーこわ。
ローマに来てすぐの私だったら恐怖で失神していたかもしれないよ。
「お前……」
「抑えなさい、ヒルダ。あなたがやった事なのだから、ね?」
「ぐぅ……」
なんと、キッス未遂事件の発端を作った悪魔が私の肩を持ってくれるそうだ。
でもツッコまないよ? 2対1の有利な状況を自ら壊すのは得策ではない。ヒルダはトロヤには逆らわない、つまり強者には逆らわないって事なのだろう。
「クロも、この子を許してあげて? あなたに会えたのが嬉しくて、ちょっとだけ魔が差してしまっただけなのよ」
「なっ……!? ち、ちち、違うわよお姉様! コイツが私の寝込みを襲おうとして来たから――」
「ななっ……! ち、違います、誤解です! 私はただ、ヒルダの綺麗な顔に戦いの傷が残ってないか確認してただけで……」
正当防衛を主張し非難を重ねるヒルダに、決して故意ではないと無罪を訴える。痴漢冤罪で触った当たったの取り調べされている気分なんですけど……
「きれ……ッ!? きれ、き…………嘘をおっしゃい! きき、傷なんてすぐに消えるわ、お前も知っているでしょう。ど、どんな理由があってずっと私の事を見ていたのか、邪な考えでも構わないから教えなさいよ!」
数秒間も口の端をヒクヒク痙攣させたかと思えば、紅潮した顔で身を乗り出してベシベシと畳んだ扇をテーブルに打ち付ける。
なぜか非難ばかりしていたさっきより理由を聞き出す方が乗り気になってません?
「邪な考えなんて持ってませんよ!」
「ならあなたは理由もなく、淑女の顔を無遠慮にねっとりと舐め回すように見つめるのかしら」
「それは、だって――――」
アンタ達が下着姿だったんだもんとか言ったらまた悪夢にオトされる羽目になる。
今度は人間界に戻って来られないかもしれないので、叫びたい心をぐっとこらえた。
「いえ! あなたの顔に見惚れていた訳ではないんです、ホントに! 口付けしそうになったのも単なる事故で、狙ってなかったんです!」
言ってて思うが信憑性は無いだろう。
事実確認できるのはヒルダが目を覚ました時には私が彼女へ覆いかぶさるように倒れ込んでいたという事実のみ。トロヤの超音波が頭の近くで炸裂しました……なんて信じて貰えないから説明を省いている。
(往生際が悪いって、余計に怒らせちゃったか?)
後悔しても遅いから開き直ればいいのに、そこは繊細な心を持つ私。面と面を合わせられないね。俯いて沙汰を待つ事しかできないよ。弁護人を雇うお金もないしさ。
必死の形相で念を押し、『あなたに襲い掛かろうとしたわけじゃない理由』を証明したけど、逆効果だったかもしれない。
ここまでしつこいと怪しさが増してしまった可能性も……
――チラッ?
「…………き、ききき、きっ! ~~~~ッ!」
(どうなんだ、あれ?)
識別不能。
背中に隠れていた翼が興奮したヒルダの感情を発露するようにバサァと広がり、彼女の悲鳴にも似た鳴き声との共振でワイングラスがキュイキュイと異音を発して爆発しそうになっている。かと思うと、次第に威嚇した蝙蝠よりも喧しいキーキー音がとうとう聞こえなくなった。
ついに人体でリスニング出来る領域を突破したようだ。
生き物の鳴き声は感情を伝える為に多彩なものだけど、言葉で感情表現できる人間だって無意識に声や動作に出てしまうもの。無理矢理こじつけて解釈するとすれば、彼女は可聴域で発せられる威嚇の上位版、超威嚇をしているのか。
威嚇をするのは怒りや恐怖、パニックや警告が原因で、言葉にすれば「こっち来ないで!」なんて拒否の心情が出ていると言える。要は「超こっち来ないで!」ってこと。
言葉で言い表せないほどブチ切れてると推測できるね。やっちまったなぁ。
すかさず立ち上がり、当初の計画通りトロヤの背後に退避する。
しかし、呪われし血塗れの蝋人形のように固まったヒルダはその行動を目で追う事もせずに、私が居たソファの方を超威嚇し続けていた。
「オバケがいるように見えますか? トロヤさん」
「私自身にはステルシーの素質はないもの。
一度死んだ吸血鬼さんから霊感は無い宣言が飛び出し、ますます深まる謎。
あの人は何を威嚇しているんだろう?
「でも、ああ、良かった。あなたと会った事で少しは落ち着いたわね」
金とザクロの装飾が施された銀の人盾は、にこやかな晴れ顔で『鉱物の味評価』に続く難解な自論を展開してきた。
感性のずれなんて言葉じゃ言い表せない真反対な感想が私には浮かんでいる。
(その話は視線の先にいる、髪をジブリ並みに逆立ててる少女の事を言ってるんだよね?)
あれで落ち着いてるの? 冗談キツイよ、常時あんな音波攻撃されたら聴覚障害を患っちゃうって。実は吸血鬼同士だと日常会話が超音波なんです、とかでもないでしょう?
「そうは見えませんが……」
「あらまぁ、言ったでしょう? 照れているの」
「それも良く分かりませんけど」
「自分が認めているけど弱い者に対してツンケンしているのは昔からね。私も力の無い生前は素直じゃないあの子の扱いに苦労したものだわ、会ってあげないとすぐに不機嫌になるし」
そう言っておきながら彼女の顔は苦笑いに程近いものの、辛くも楽しかった日々を懐かしむような笑顔だ。
彼女が斃されたのは戦乱の歴史の真っ只中で、楽しい思い出の陰にはいつも苦しみに胸を押さえるような出来事が付きまとっていたのかもしれない。
「叔父様が私達親子を掘り起こしてくれた事には感謝しているし、親の教育方針に口を挟むつもりもないのだけれど、叔母様が亡くなってからは余計に閉鎖的過ぎるわ。種の根絶を恐れるのならもっと人々を知る必要があるの」
「ヒルダの、お父さん……ですか」
彼女の語り口は少し批判的で、苦笑いも残らない。
人間と積極的に交流するとはいかずとも互いを知るべきだと、それがその人物には足りないのだと。
でも、その考えが種族の信条に反する事を憂うような昏い顔に変わった。
ヒルダの父親なら人間ではなく吸血鬼。
そして娘以上に人間との親交に対して排他的なのか。
父親の影響を大いに受けてあの性格になったのだから、過激でサディスティックな彼女の男版がその叔父様って奴――ブラドの人物像だと仮定出来る。
話し合いに応じそうもないし、強さもヒルダ以上なら人類の脅威だ。
バチカンが過去に討ち取れずに生き残っているのも、仕方が無い事なのかもね。
頭の中で固まり始めた暴虐で猛悪な影の
一般レベルの頭でふと、思う。
そんな人物が、"怪盗団"の存在を――娘達が人間と親交を持つ場をなぜ黙認していたのだろうか? と。
しかし、トロヤの話は終わっていなかった。
私の右手が少しヒンヤリした両の手で包み込まれ、お色直しした黒いインクのドレスとキャンバスの様な真っ白い肌の境目である胸元へと導かれる。まるで闇と光のわだかまりを隠すかのように。
思わずドキッとして引こうとした手は動かせない。
彼女の口元が、願いを込めて再び動いたから。
「でないと、あの子が可哀想だもの……だから、そう、私達には異常点であるあなたが――」
「キィーーーッ!!」
「!?」
ビックリしすぎて眉が飛んで行くかと思った。
どうやら亡霊を追い祓う事に成功した特殊音波発生装置が出力を落とし始めたらしく、可聴域に戻ってきたのだろう。
ヒステリックな金切り声が部屋中を暴れ回り、次に追い払うのは私の番だとでも言わんばかりの勢いで――?
血の流れが……変だ。
目の前がチカチカして水位が上昇するセルヴィーレの感覚でもなければ。
切り替わる様に波が立つスイッチでも……ないぞ?
なんだ、これ。
私の身体に、何が……?
(…………しまった! 今日は朝から一度も香水をつけ直してないッ!)
カナから言いつけられていた絶対のルール。
それを……忘れてしまった!
(スイッチの不調も、一概に疲労のせいだと決めつけるべきじゃなかったんだ)
下を見ているのに床との距離を測れず、体を支える脚も麻痺したように感覚が薄くなってきた。手を握っているのか開いているのかさえ曖昧で、世界が倍速と低速を繰り返す。
運動神経・感覚神経・自律神経――末梢神経に障害が出始めた兆候、恐らくこれから丸一日は意識混濁期間に入ってしまう。
一切の記憶に残らない、私にとって夢の記憶としても残らない、時間だけが進む完全な空白期間だ。
「……クロ? 様子がヘンよ、顔も赤いわ」
「トロヤ……」
おかしい、おかしい、おかしい!
上目遣いで見上げてくるトロヤってこんなに……可愛かったっけ? 心臓が暴れ狂うほどに、その胸元に置かれた手が彼女の腕を捕まえたいと訴えてくる。
捕まえてどうする気だ?
引っ張り返すのか?
そしたら自分から抱き寄せて?
その後は……
……彼女に何をする気だ! 私は!
ヒルダの薔薇色の唇が目の前まで迫った光景があやふやに思い出され、真紅の蠱惑的な――トロヤの唇に差し替えられて再生された。
それはきっと柔らかくて、紋章なんかよりもずっと強く私の事を縛り付けてしまう。
そうしようと思えば、彼女に拒ませることはないだろう。熱に浮かされた今の私にはそれが出来てしまうから。
「離れろッ!」
「あ……」
私が何を求めたのか――――
それが予測出来てしまって。
私から離れることが出来ず、底知れない恐怖から乱暴に彼女を突き放す。
トロヤは高速でもない普通の私の動きにされるがまま、ベッドのある方向に呆然自失の状態で斥けられた。
何をされたのかが分からないと言いたげな表情からは生気が感じられない。
まるで悪夢を見た年端の行かぬ少女のように、魂が抜け出てしまったかのようだ。
私は…………欲しいと――
「今日は……帰ります」
彼女が欲しいと――
「……何事なの? クロ、お前らしくないわね。どんなお話をしていたのかは知らないけれど、お姉様を突き飛ばすだなんて」
「ごめんなさい、気分が、優れなくて」
純粋で負けず嫌いな子供っぽい彼女が。
世話好きで魅力的な包容力のある彼女を。
「人間如きがやって良い事と悪い事も忘れてしまったのかしら?」
「謝罪します。でも、今は……」
女であるはずの私の本能が、トロヤを1人の女性として欲した。
この血の流れはなんだ?
芯から熱くなっていく荒々しい闘気を抑え込もうとしてもスイッチのように鎮められず、
灼けるほど熱い体は自分のものではないと思ってしまう。
火傷を負った腕を庇いながら忌々しいそいつへ殺意を込めて対峙した。
見えない何か。
見ようとすればするほど、意識すればするほど。
ただ熱の塊だけが、そこにそいつがいることの証。
逆らう意思さえも無意味だと思わされる、私の存在を脅かす存在。
それが、確かに私を見据えて、言った。
「おやすみ、クロ。後の事は俺に任せてゆっくり休むといい。大丈夫、クロが望まないことは俺も望まない」
信じられるか。
お前は私の意識を奪おうとしている。危険だ。
「あなたは誰なんですか?
お巡りさんの単語にクスッと笑って、馬鹿にしてるのか?
「今日のクロは素直になってくれないね。怖がらなくていいんだよ」
「怖がる?冗談は止めてください。逆ですよ、あなたの事を思って帰れと促しているんです」
強がっているのは一目瞭然だろうな。
私はあの熱さに耐え切れず、既に窓枠の一枚に背を付けるまでに追い込まれているのだ。
そう、この場においても私は弱者だった。
余裕がないのは私の方。
焼かれて消し炭にされるのも私の方。
このままじゃ……
「強い意思だ。でも、ごめんよ? 頑張り屋さんな君を労う為にあげられるご褒美が見つからなくてね」
……ダメ。私は――
「また今度、探してみるよ。俺は、クロの敵じゃない」
「でも味方じゃない、ですよね?」
――消えたくないッ!
「いや、味方だよ……って、もう窓枠に戻って行っちゃったか。最近はずっと、警戒されているみたいだ」
ヒステリア・フェロモーネが発動している間夢の光景が映し出される金の窓枠へ、彼女は消えて行った。フェロモーネの解除と同時に窓枠自体も存在ごと掻き消えてしまう。
何度見ても慣れない光景だ。直前まで自分自身に当てられていた敵意さえも断絶したように消え去っていく。
「さて、俺は俺の道を。クロとの約束も守らないとね」
――俺が、あいつに頼りっぱなしなのも良くないしな。
クロからキンジとして完全に人格が切り替わった瞬間、痺れて緩慢になっていた体がフッと自由になった。
これは嬉しい誤算だな。派生形フェロモーネの切れ目にノルマーレを経由させると神経の消耗を軽減させることが可能らしい。格闘ゲームの上級テクニックみたいだ。
立ちくらみに顔を押さえていた手を退ければ、明るくなった視界の先には2人の吸血鬼がいる。
研磨された鉱石のように恐ろしいほど美麗で、両刃のナイフよりも危険なご令嬢達が。
だが不思議と恐怖は感じない。
今の俺では室内から逃げる事もままならないってのに、それが可能な気がしてならない。
これもクロとしての経験がもたらす成果だとすれば一長一短だな。
クロの経験は俺の経験でもあるが、その全てを再現出来るわけじゃない。俺は死ぬまで冷静でいられるだろうよ。
「ヒルダ、1ついいかい?」
「……許可しないわ。跪いて名を名乗りなさい」
ヒルダが俺を睨む。
宝石の様な赤瞳の中には怒りによってか禍々しいまでの殺気が満たされていた。
初めはクロの口調に合わせて話そうかとも思ったが、目の前の少女から向けられた疑い深く攻撃的な瞳は何らかの確信をもって、俺という存在を捉えている。
その目が雄弁に語っていた、『お前はクロじゃない』と。そこを逆撫でするほど愚かじゃないさ。
「仰せのままに、ヒルダ・ドラキュリア様」
誠心誠意おどけてみせても彼女の心には一部の隙も生じさせられず、指を少し曲げるだけで、もしくは重心を傾けるだけで視線が刺さる。
格上に当てられる敵意とも取れる対応に足が竦みそうだ。
「ですがその前に、少し宜しいでしょうか?」
しかし、優先事項は自分の身の安全よりも、感情の行き違いで傷付けてしまった麗しい少女に
まるで発作を起こしたように小刻みに震え、翼の端からボロ布のようにほつれていく様子はとても見ていられない。
そんなはずないそんなはず……と頭を振り乱し、妄想を振り払おうと必死な彼女を中心に室内の温度が震えあがる程に下がっていく。
ベッドからはパキッ! とトロヤが凍った布を握り潰し、皴を割り伸ばす音が上がった。
「変な事はしない方が身の為よ」
「寛大な配慮に感謝いたします。……トロヤ、さっきはごめん」
冷気から逃れ、ついさっきまでクロが寝ていた2人掛けのソファの真ん中に腰を落ち着けたヒルダの言葉は、9割は俺の不審な行動に釘を刺し、残り1割は……身を案じてくれていると思っておこう。
たった5歩の距離。それだけ。
大股で闊歩すれば3歩で辿り着けるのだが、異常を感じてはばかられる。
1歩目を踏み出した段階で、その温度差にヒステリアモードである自分の感覚神経が正常なのかを疑ってしまった。
寒い。
汗を掻いていたら皮膚表面が凍り付いていたんじゃないかと思うほど、寒い。
そして、2歩目で足を止めざるを得なかった。
冷たい。
真冬の雪原に裸で転がされている気分だ。次の1歩がどんな世界なのかと恐怖する。
意を込めて3歩目を踏み出し掛けた時、トロヤが顔を上げて俺の目を見る。
幸い、その瞳にローマで夜遊びする際に見せた拒絶の色は見られない。まだ、間に合う。
「クロは……私を嫌いになった訳じゃないの……?」
「それは夜空に浮かんで優しく人々を見守る月が世界から永遠に消えてしまうよりあり得ないことだよ。この洞窟の中に差し込んだ満月の明かりがあまりにも美し過ぎて、酔ってしまったんだ」
こんな時でも普通に話さずに口説いてしまう自分に少し辟易しながらも、彼女との距離をまた一歩詰めて行く。
ヒルダは黙って事の成り行きを見守る姿勢のようだ。
3歩目は、痛い。
寒中禊という祭事の話は聞いたことがあったものの、俺の体感ではきっとそれ以上だ。
身体のあちこちに切り傷や刺し傷がついてしまったんじゃないかと思うぐらいに、冷気に神経が痛めつけられている。
「?? この明かりは電気の光よ」
「誰しも自分の事は見えないものさ。でも、トロヤを独り占めしてしまったら夜道を歩く人々が困ってしまうだろう?」
月が綺麗ですねの意味は通じていないようだね。あり得ないの部分だけを聞いて若干の笑顔を取り戻し始めたが、詩的表現の9割は右から左へと流れて行ってしまったらしい。
仕方がないからもう一度口説き直し、分かり易いように満月は君の事だよと彼女の名前を付け加えておく。
「???」
尚もトロヤの頭の上からはハテナマークは消えていない。
この子はアレだね、ラブレターとか貰っても「何かしらこれ?」ってなるタイプ。
中国系の恋文なんかは表現が詩的過ぎて悪戯だとでも思って捨てちゃいそうだよ。
だが、意味は通じなくても話し掛けた効果はあった。
空気の温度が上がっていき、今なら心肺を傷めずに呼吸も出来る。
残りの2歩で命を落とす心配も無くなった訳だ。
ただ……
「ははは……月を落とすのは難しいね。それもそうか、全ての人類を支えられる地球ですら抱き留める事が叶わない相手なんだし、本当なら触れることも許されない山巓の存在、触れることが出来ない自由な風のような女性だよ」
悔しいが完全敗北だよ。
負け惜しみの言葉も彼女を称えて終える。それすらも、彼女には理解出来ていないだろうけど。
「……もういいでしょう?」
4歩目の右足を持ち上げようとした所で、多分に空気を孕み呆れを隠そうともしない声が横槍に入る。
義姉が気を持ち直したのを確認した義妹が、それ以上の接近を禁じたのだ。
惜しいけどトロヤを口説くのはまたの機会にしようか。今度はもっと直接的な表現を選ばないといけないね。
優先事項の第一項目が消化され、次はこの身を守る事が優先される。
ソファに足を組んだ吸血鬼のお嬢様がご所望なさった通りに片膝のみを立て、それでも有事の機動力を確保する為にもう片膝は微妙に浮かせたまま、バネの要領で初動の準備を整えていく。
この一言が吉と出るか凶と出るか……
「私の名前は……遠山クロ、でございます――」
バチィッ!
憤るように目前で弾ける火花。
小さな放電が巻き毛のツインテールを駆け抜け、青白い光がヒルダの影を壁中に泳ぎ回らせた。
(相変わらずツイてないね。大凶を引いたみたいだよ)
動物の本能がスパークノイズを嫌い、怯んだ体は一時的な硬直状態に陥ってしまう。
しかし、いつの間にか赤い液体で満たされたグラスに映る自分の顔は驚くほど冷静だった。
「顔も、声も、クロと何も変わらない。でも、違うわね、お前は。そうでしょう?」
電撃の残像が残る目で捉えた顔は、案の定俺がクロの名を語った事へ、静かな怒りを露わにしている。
悪夢はまだ、終わっていないのだ。