まめの創作活動

創作したいだけ

黒金の戦姉妹37話 夢魘の愾昇

夢魘の愾昇ハガード・アボミネーション

 

 

 

「荒く扱って……その、悪かったの。……痛まぬか?」

「悲しい事に、慣れてます。そういう家庭に生まれたもので」

 

 

クレオパトラの胸に抱かれる遠山の金さん……実にシュールだ。

しかも、2人が出会ったのはクレオパトラの代名詞、7世に因縁のあるローマ。「来た、見た、勝った」ってやつだね。まあ、私の場合は「強制的に連れて来られた、情けない所を見られた、思いの強さで負かされた」の受け身3連発だけどさ。

姉さん以外の誰かに説教を喰らう事が久しかったから、胸ぐらを掴まれた時はボコボコにタコられるかと思ったよ。

 

 

「家族……か」

「あっ……!すみません、私――」

 

 

辛く厳しい修行の日々。

不幸自慢には事欠かないが傍には苦楽を共にした姉さんがいる。一日を分かち合える肉親がいる。

それが彼女の周りにはいるのだろうか。

 

物憂げな表情のパトラはすくっと立ち上がり、乱暴に押し倒されていた簡素な木製の椅子を起き上がらせた。

そのまま目線だけで私の様子を窺うと、不自然にまごついてからお誕生日席へ戻っていく。

 

……まさかとは思うが、手を差し伸べようとしてくれたのかな?

ばっちり甘えて元気になったから放って置いても大丈夫みたいな扱いかもしれない。

 

「しょっ、と……なに、気にせんでも良い。家族などと言う単語で沈むような人生は送っとらんぞ」

 

たおやかに脚を組むパトラには私を気遣う余裕さえ感じられる。

正直、パトラという女性の人物像を勘違いしていた。口が達者で偉そうで威張り散らしてて傲慢で我儘でマウント取りたがりで……

彼女の振舞いは実際にその通りではあったけれど、それだけではなかった。

一見無責任に思える大言の数々は弱音の代わりに吐かれているのだと、ひと月の付き合いでようやく理解した。

 

友の為に世界征服。箱庭の全てを敵に回すよりも、ずっと破天荒だ。

それだけの覚悟を持っているのが彼女だけとは限らない。当然、私にだって思いがある。

 

もし、誰かの思いが私の思いを害するなら。迷わず戦う、戦わなければならない。

己が正しい道だと考えたのなら最後まで貫き通さなくてはならない。そこに迷いが生じてはいけない。

 

『義』を通すということ。

私には未熟ながら貫き通す武力がある。悪を断じ、正義を助ける力を持っている。持っている者はその力を正しく振るわなくてはならない。

 

もし、誰かの思いを悪だと認めてしまったら。

その時、私が選んだ道は……いくつもの思いを断ち切らなければならないのだろうか…………

 

「ほほほっ、しかし気に病むならマッサージでもしてもらおうかの。お前は妾の好みぢゃ、特別に許そう」

 

思い悩む私にそんな提案。

ローズのアロマオイルやらお香やら、パイル生地のベッドシーツ、果てには好みのサボンジェム。マッサージ1回でいくら使うんだとツッコまないでいたら、まんまと自慢されてしまったよ。

内外のストレス解消は美容に欠かせないので、お金に糸目を付けないそうだ。

美人さんは別荘並の維持費が掛かって大変ですなぁ。

 

「マッサージ師のお仕事を奪いたくないのでお構いなく」

 

なにが許されたんだろうという疑問はこの際脇に置いておき、明らかに整体される側ではなくする側の怪しい手付きをしたパトラのお誘いをやんわりと拒む。

 

 

無論、お詫びの件は是非も無い。好みと言われて悪い気もしないのだけど、ヒルダといい、どうして"特別に"と前置きしてからマッサージをさせたがるのかな。

鼻が詰まるような強い芳香も手がベタベタするのも好きじゃないんですよ。

 

「パトラ様ー! ケケットから特製のフルーツソースを教わったのじゃー!」

 

そう思っていたら私が嫌いじゃないタイプのかぐわしい香り――何種類かのフルーツを煮詰めた甘酸っぱい匂いがキッチン方面から人間の歩幅で近付く。

発ガンを誘発しそうな匂いはしないな。揚げ物は無事焦がさずに済んだらしい。

 

 

「……うむ、味見はしたかの?」

「とても美味しかったのじゃー! パトラ様もぜひ」

 

 

ハトホルが頭に乗っけている小さなボウルの中身をパトラが若干険しい表情で覗いている。

口元を押さえ、ある種炭化した発がん性物質よりも危険な物体Xを目の当たりにした研究員みたいだ。

 

……あれ? ハトホルはケケットに敬称を付けず呼び捨てなのか?

ますます3人の関係性が分からない。身分ではなく一方的に慕っている説が有力になったな。

確かに、パトラはふんぞり返って2人をあごで使うことはしていないし、

 

「リーダー? なんで地面に座っているんですか?」

 

私が客人という点を差し引いても、ケケットが偉そうな態度を取りそうには見えない。

心底不思議そうに見下ろす金色の瞳には、やっぱり日本人は床に座る文化なのかなって書いてあった。

私からすればあなたがトレーに載せている献立の方が心底不思議なんですけどね。茹でたひよこ豆の隣に金属光沢を放つ球体――火縄銃とかフリントロックとか古式の前装銃射撃式マズルローダー に突っ込む丸玉みたいな銀が盛り付けられた小さなパンプレート。

それ、小麦粉パンじゃなくて粉火薬パァンだよね? 何もうまくないよ、金属は食べられないもん。

 

 

「自然を感じていました。あとリーダーは止め――」

「体を冷やし過ぎてはいけませんよ? リーダー」

「――はい」

 

 

……綺麗な言葉で押されると日和るの、直したいなー……

 

 

ゴゴゴゴゴゴゴ……

 

 

「あっ、帰ってきたみたい!」

 

空洞から響いて来る岩と岩が擦れるような微振動。あれだ、入り口の岩扉が持ち上がる音。

帰って来た……というと誘拐犯トロヤとあのフルフェイスの人だろうな。

 

俊敏な動きで出迎えに行くケケットは飼い主の帰宅を察知した犬みたいだ。

古代エジプトでは生前のおもてなしが功績として墓標に刻まれたそうだが、その文化が現代にも根付いているのかね。

 

「丁度良い、食事にしようぞ。クロよ、部屋へ行きヒルダを連れて来い」

 

じゃあ今のところ、この人のお墓には書くこと無いねって、お誕生日席に生暖かい視線を送ったものの、案の定取り合う気も無いんだな。

パトラが幸せいっぱいの表情に両腕を広げてお出迎えしてたら絶対家に入らないけど。怖いし。

「じゃー!」の方はフルーツソースを食卓に相応しい容器へ移しに行ったみたい。

 

「え、私が連れて来るんですか?」 

 

あなたたち、ヒルダが暴れ足りてないって話してたよね。

つまりは大電流注意の看板が必要な危険地帯。そんな所に喀血した疲労困憊の中学生を送り込むことに良心の呵責を感じないの?

 

 

「トロヤの判断ではお前の説得が2番目に有効だそうぢゃ。そのまま、お前も着替えて来う。ドロドロの服で食の質を下げるものではない」

「うわぁ……そこまで行ったら一番が良かったなぁ。でも、そうですね。私もドロドロの服は嫌ですし、理子かトロヤに見繕ってもらいますよ」

 

 

2番で悪いかチクショウ。死んだら化けて出てやる。

そんですっごいちょっかい掛けてやるもんね。初夏のイナゴみたいに! 真夏のコバエみたいに!

 

服は期待しないでおこう。

ヒルダのセンスはお察しだし、理子とトロヤはフリフリの服を着るのも着せるのも好きだった。

軟弱な衣装は着たくないけど、最悪シャツ1枚でもスウェットでもキレイな布を纏えればそれでいいや。

 

 

 

ヒタ……ヒタ…………

 

 

部屋の先は横穴のように真っ直ぐ奥へと続いていて、不均等な間隔で小部屋と火の灯ったランプがあった。

立って歩けないほどではないにしろ天井は低く、成人男性なら屈まなければ頭のてっぺんがカッパみたいに平らになりそうだ。

左右の壁は円を描くアーチ状で安定しており、炭鉱にみられる木材やトンネルのコンクリートのような補強はなされていない。

おそらく自然生成されてから数千年単位の洞窟だ。固い地盤は崩落の心配とは無縁だろう。

 

「……道案内を頼もうにも、ネズミや虫の一匹も見掛けないですね」

 

ケケットが一旦止めたにも関わらず、早くご飯を食べたいパトラの迷わず行けよ行けば分かるさ的な無責任極まりない指示で、ヒルダの部屋を探し求めてここまで来た。

驚くべきことにと言うべきか当然と言うべきか、生活空間があるこの洞窟には電気が通っているらしい。今は発電機の稼働音もしないし照明も点いていないけど、どこかにバッテリールームがあるのかもしれない。

 

「今度の飾りは……ダンシングサンタ…………」

 

各部屋の入口には表札とウェルカムボードの代わりに飾りがあって、スピーカーの電池が切れた赤衣装に黒ぶち眼鏡のお爺さんが白髭を揺らしてツイストさせている。無音で。ちょっと怖いよ。

その正面には狛犬と唐獅子が阿吽の呼吸で、サンタの腰振りダンスを必死の形相で威嚇してるし、統一性が無さすぎる。

 

ヒルダは何を飾ってるんだろ? ドクロ?」

 

理解不能な対象に忙しなく運指するトロンボーンのように首を傾げ、演奏会を控えたアンプの音響調節ロータリースイッチのように視線を行ったり来たりさせているがそれらしき物は見当たらない。

 

(なんだかなぁ、首のネジが緩んじゃいそうですよ)

 

玄関口が奇妙なら、内装もまた奇怪。

 

覗いた小部屋では、毛並みの細部まで再現した精巧な木彫りの熊と、竹に和紙を張り付けて作られた小さなねぶた灯篭の征夷大将軍が睨みあっていて、まさに観光向けで良い闘争の雰囲気を醸している。

 

でも待てよ? あの熊、額に白くて小さい角が生えてるね。……鬼? 何かの風刺だろうか。

てっきり熊に対して向けられていたと思っていた漆塗りの黒刀は木製、それが熊の左前足で器用に握られ、さまになった構図で将軍に切っ先を合わせられている。

黄色の和紙で作られた弓を引いた将軍は勇ましく立ち向かっているが、よくよく見るとあちこちが痛んでいて、偶然なのか意向なのか追い詰められた状況をつぶさに表現しているようだった。

王道の日本物語なら角は異民族や災害、疫病なんかを暗喩した悪役の印。

勝ってはいけない存在のはずだけど……

 

(この部屋……すごく、胸騒ぎがする……)

 

天井からぶら下がる緋いLEDライトとそれを見上げる般若のお面を被ったヒトや動物の人形、太陽と三日月の模型が載せられた天秤は月の側へと傾き、彩のある孔雀の羽根があちこちに刺され壁に掛けられた海図? は……どこの物だろう、少なくとも日本近海や地中海では無さそうである。

青銅製の門に巻付いた斑点模様の緑蛇にも、翡翠の眼を持つ白蛇にも統一感がない。

それなのに意味を探ろうとしてしまうのは、この部屋に満ちた日本を思わせる懐郷の念だろう。

 

どこかの遊牧民族を映した写真の子供と目があった時、

 

 

「そこにいるの、クロ?」

「!」

 

 

小部屋の外、通路の元来ていた方向から小音でも鋭く尖る声が聞こえた。

追い付かれたのか。覗くだけのつもりが、いつの間にやら室内に足を進めてしまっていたらしい。

 

何となく、本当に何となく誰もいないこの部屋に背中を見せるのが怖くて、後ろ向きで退室する。

いやいや、幼い子供じゃないんで、不気味な置き物にビビってなんかないですよ?

ほんとほんと。クロ、嘘つかない。

 

「あらまあ、そんなところに。だめじゃない、勝手に他人の部屋に入ったら」

 

身体が完全に退室したところで見つかった。

声の主は言うまでもない。目が痛くなりそうなほど黄色の色素が強い金髪を輝かせた吸血鬼の姉の方だ。従姉らしいけど。

 

優しく咎めるような口調も、そのワクワクを隠しきれてない笑顔じゃあ効果は半減ですよ。羽パタ禁止!

なにさ、興味津々な子供を見守る親みたいな顔しちゃって。それとも私は好奇心旺盛なペット扱いですかね?

 

 

「美術館に不法侵入した人には言われたくないセリフですね」

「仕方ないじゃない、銀分が不足していたんだもの」

 

 

鉄分みたいに言うな。

カナとメーヤさんが追い払わなかったら、館内の銀という銀を食い尽くすつもりだっただろ。

悪びれもしないその態度は問題ありだが武偵の活躍により未遂に終わった。

 

あれから私には聞きたいことが山ほど出来たよ。過去から未来まで、トロヤが知っているであろうことが。

 

 

「トロヤさんの秘密好きは十分です。そろそろここに連れて来た理由を明確に教え――」

「待って」

「――?」

 

 

はいはい、彼女がマイペースなのは分かってる。

あのヒルダですらこの気紛れに振り回されてたんだ。私は抵抗の意思を見せませんよ。

 

自分より強いと畏怖の感情に流されるのではなく、自由奔放に振る舞う彼女が魅力的なのだ。だから、振り回されて嫌な気がしない。

潜在的なものもあるだろうけど、理子はトロヤのこういう所が似たんだな、きっと。

 

待ったを掛けられ、お手みたいな形で差し出された右手を取るべきか迷う。

どっち?

待てなの? お手なの?

 

(……まあ、減るもんじゃないしね)

 

はいはい、お手っと――ッ⁉

 

 

ギュウゥゥ…………――

 

 

全く予想していない行動だったから、今度は意思と関係なく無抵抗に捕まった。

差し出された右手に触れようかという距離で、彼女の白無垢のような右腕が体ごとランジの要領で私の背中に回される。

 

(――反応も出来なかった。チクショウ、スイッチが入ってないからって好き放題に……)

 

行き場を失った私の右手は掌の下に潜り込んだトロヤの頭にポンッと自然に乗ってしまった。

イヅナを好き放題に弄んだ因果か、ガッチリとしがみついたトロヤが頭をすり寄せて来るのに合わせて、良い匂いが凝縮された少しだけ癖のある髪を無理矢理に撫でさせられる。

驚き固まっている内に左腕も軽く背中を掴んでるし。逃げれん……!

 

プライドもあったもんじゃないな。

悪魔の様な吸血鬼がどこの回路をどうショートしたんだか、べったべたの仔犬モードで甘えまくりだよ。

その弛緩しきった身体が、ふにゅっと制服越しに押し当てられている。

 

 

「あなたをローマで見付けてから、ずっと、こうしたかった」

「あの、トロヤ……さん?」

「呼び捨てでいいのよ? 男勝りで粗野な話し方でも、懐かしくて……嬉しくて、もう怒れないわ」

 

 

で見付けた、って自白したな。

やはり、フランスで出会った時には私の事を既に知っていたってわけか。

初めから殺す気は無く、妨害さえなければ私をどこかに攫うつもりだった。

それでも銀が不足して不安定な彼女なら勢い余って殺しかねない。運が良かったよ。

 

 

「懐かしい? 私とあなたはフランスの美術館が初対面ですよ」

「もうっ! あなたはいつもそう。ヒルダにばっかりあの可憐な笑顔を向けるのね?」

 

 

どの部分を切り取って伝わったのか、拗ねたトロヤは私が自然に打ち解けたとでも思っているようだ。あの乱暴で凶暴なお貴族様と円満なんて一生涯を賭しても不可能ってものだよ。早死にするからね。

 

難解な義妹と比較する分には単純で機嫌を取りやすいトロヤだが、暴れ出したら人間の手に負えない共通点は健在。ヒルダがちょいちょい雷を落とす雨雲なら、彼女は年に数回襲来する爆弾低気圧だ。

 

爆心地に滞在している最中に爆発されてはたまらない。

切断するワイヤーを再三復唱する爆発物対策部隊処理班の心持ちで、自発的に動き出した私の右手が彼女の髪をぎこちなく梳いていく。

 

「……冗談よ? うふふ、甘えがいがあるわ。とぉーっても、気持ちが良いもの」

 

芯の通った金色の糸をはじくと、彼女の機嫌はコロリと一転し、私を再びその汚れなき両腕で捕まえた。片手で出来るタイフーン鎮静の儀式がお気に召されたご様子。

人知れず明日の天候を変えちゃったけど……まいっか。晴れ空に文句を言う人なんて、それこそヒルダくらいのものだしね。

 

 

「"おかえりなさい"金星。あなたが死ぬなんて、私でなくても信じなかったわよ、嘘つきさん」

 

幸せを堪能し目を蕩けさせていたトロヤがポロッと口にする名前に身体ごと心臓が跳ねた。

その名を呼んだ彼女の期待する返事は分かってる。伝わっている。

でも、ダメなんだ……あの頃とは私達がお互いに求めるモノが違い過ぎる。

かつての怪盗団だからと味方になるつもりはない。ヒルダに正体を明かしたのは理子を救う為であって、それ以上でもそれ以下でもないのだ。

 

「……死にましたよ、彼女は。どこにも、いません、オリヴァから聞いたでしょう?」

 

「おかえり」なんて……卑怯だ。

「ただいま」って言いたくなっちゃうじゃないか。

 

なんとか踏み止まって誤魔化しの返事を返す。

トロヤの翼が深く沈んで、胸に耐えがたい痛みが走った。たぶん、トロヤが感じているものと同じ苦しみ。

 

「……そう、そうなのね。あなたは昔から、難しい事を率先してよく考える子だった。考え事をしている貌も凛々しくて素敵よ……」

 

彼女を傷付けたのは私なのに、それでも構わないとばかりに私へ身を寄せる。もう離したくないと、もう失いたくないと希うように……

腰が折り曲げられ丸くなった背筋。彼女との身長差がより顕著になり、感慨に耽る。

 

(……背、伸びたんだなぁ、私)

 

時の流れを実感した。

見下ろしているのだ、5年前には鬱陶しいくらいに撫で回してきた仲間を。

 

 

5年の歳月は、怪盗団の崩壊と共に人間関係をがらりと変えてしまっていた。

三々五々に我欲を追求するならず者達が、その形を取り戻す時は来るのだろうか。

 

(少なくとも私は……戻らない。理子の願いを叶えたから)

 

再会したら、タスケテコールが増えてたけどね。

そっちは多少の無茶をしてでも解決してやるよ。

 

だからこれは、身勝手な気休め。

騙すみたいで悪いけど、本心だから――

 

「ですが、私からも伝言があります。彼女は言いました」

 

――ごめんね、クロ、嘘つきだったよ――

 

「ただいまって」

 

――金星なんて人間、存在しないのにね。

 

 

胸の痛みが和らぐ。

何よりも安上がりで効果があり、重い副作用を持つ枷。

鎮痛剤となった言葉は彼女の翼を軽やかに浮かせ、私の心へと深く深く溶け込んでいった。

 

 

「……言わせたようなものね、ごめんなさい。その名前で呼ばないから……だから、もう少しだけ甘えさせて?」

「もう少しだけですよ? あなたとヒルダが待ってるんですから」

「ええ」

 

 

寄り道三昧だった自分の事は棚に上げて、物理的にも上から目線の許可を出す。

私よりずっと年上の少女は、それに素直に頷いた。

 

でも、しばらくは離れてくれそうに、ないね。

もう少しなんて曖昧な言葉だったから、時間切れもない。

 

上等だよ。私も嘘つきだから……別に、離れたいわけじゃないですし。

 

 

 

 

 

……気まずい。

 

 

立ち直ったトロヤは何事も無かったかのように平然と歩いて行くが、もしや泣いた吸血鬼を想像したのは私の勘違い?

気になる部屋があっても制止の声を掛けられないし、追い付いてしまうのを避けたくて歩幅を意識して歩いてしまう。

 

……よし、素数を数えよう。

 

(2、3――)

 

「理子の事について、あなたには話さなければならないわね」

 

(――4、5、6……なんで話し掛けるんですか。歩幅意識しすぎて歩数数えてたし)

 

「……今ですか? ヒルダが暴徒になった話の方が優先…………あ、れ?」

 

スイッチの入っていない平凡な頭で、今さらながら事態の深刻さに気付いてしまったかもしれない。

 

限界だったヒステリアモード……今はどうだろう。

たぶん体は思うように動かないけど、記憶を思い出して推理するくらいは……

 

 

(スイッチ、ON――)

 

 

鮮明に蘇る記憶。

星座のように繋がっていく会話。

強く照らされた正解が、濃い影となって出現する。

 

 

「トロヤ、理子は……どこですか?」

「…………」

 

 

そうか、そういう事なのか。

だから、ヒルダは……

 

 

『あなたが眠っている間に、ルーマニアバチカンに仕掛けたわ、あの日の夜の内に。それも単身で、周囲を無茶苦茶にしてしまうんじゃないかと思える程に暴れ狂っていたの』

 

『一緒に来てちょうだい、理子とヒルダの為に』

 

『焦る気持ちは分かりますが、今は我慢を』

 

トロヤの判断ではお前の説得が2番目に有効だそうぢゃ

 

 

(彼女の方から打って出るとすれば、それは……)

 

理子に何かがあったから、ヒルダがバチカンに仕掛けた。

結果トロヤが彼女を抑制し、1番りこではなく2番わたしがトロヤと共にここにいる。

 

 

この奥に……理子は、いない。

 

 

「……私は分からないの。ヒルダも、リンマもバチカンが連れ去ったと思っているけれど、真実は……枝の向こう側に隠されている」

「枝の……向こう?」

 

 

申し訳なさそうに独白するが、それは結び付きそうで結び付かない、私の知見から少し離れた場所にあるヒントだった。

秘密基地ここみたいに枝葉で物理的に隠されたって事ではないだろう。

 

取り急ぎ窓枠にメモを書き残そうとするも、インクが出ない、記憶に定着しない。

このままだと有象無象の累積された日常会話の記憶と混同されてしまい、次にスイッチを入れるまで掘り出せなくなる!

 

(違う! 今を逃したら、真実を取り逃してしまうんだ! 答えを……導かないと――ッ!)

 

スイッチはすぐにでも切れてしまう。

バッテリーの切れた電池を騙し騙し使ってテレビのリモコンを操作したり、満潮に移り行く砂浜での棒倒しをするような瀬戸際だ。

 

排水溝の大きな穴を、両手で塞ぐ。

しかし、水位はみるみるうちに減少し、

 

(推理が……間に合わなかった……!)

 

何かが見えかけた。

そんな気がしたのに、私は絶好のチャンスを逃した。

 

 

左頬が痛む。

真実が、遠のいて行く。

 

トロヤは言葉を切らずに言い切った。

 

知らないのだ、その向こう側を。

風の様な彼女ですら、その枝の隙間を通れなかった。

 

 

その敵は、私達の絆という根底を知り、理子を攫ったのに。

私達は、その敵の姿形――花の調査にすら取り掛かれていない。

 

 

――――誰なんだ、お前は!

 

 

何を聞いたのか、それすらも薄れて行く。

もうじき、何かを聞いたことも忘れる。

 

 

真実へと伸ばした私の腕は、指先は。掴んだ。

 

 

また、スタートラインを。

何も知らない、私の背中を。

 

 

(何を考えてたんだっけ……? あ、そうだ、どうして証拠も無いにも関わらず皆がバチカンを犯人だと思ったのかだ。真犯人が誘導したのなら――)

 

分からないなら分からないなりに、相手の意図通りの展開から逆転予想したいところだが、とうとう電球のフィラメントが切れたみたいで、私自身がガス欠状態。

カチカチと虚しい音だけが暗い脳内に反響している。

 

やむなく、この状態のままで出来る事に挑むこととした。

つまり、記憶の堆積。次のタイミングで答えを見付けられるように。

 

「どうして皆さんはバチカンが連れて行ったと思ったのでしょうか? いくら敵対し合う関係といっても、短絡的過ぎると思うんです」

 

ヒルダは警戒心が高いし、パトラはああ見えて思慮深い、2人がそんなことで目を曇らせたりはしないだろう。

他に判断材料が無ければ、結論付けられはしなかったはずなのだ。

 

 

「仲間を信じたからよ。箱庭が行われた夜、仲間の1人が理子と一緒に別の秘密基地で守備役ギャリソンを務めていたの。パトラは他に用事があったようだし、でも……」

「でも、どうしたんですか?」

 

 

雑な合いの手になったが、どうしたもこうしたもない。

ヒルダが暴れ出したのはその夜だ。何者かが現れて、まんまと捕まった。

 

……捕まったと考えたのは、私が2番だから。

ヒルダを止められる1番であろう理子が1番のまま――生きていると、トロヤがパトラに話したのだ。

 

 

彼女は1つの部屋の前でピタリと停止し振り返ると、目を閉じて首を横に振った。

荒々しく振るわれた金の光が、明かりの乏しい通路に燦然と輝く残像を作り出して、ザクロ色の紐飾りがその中を遊ぶように翻る。

 

 

「襲撃者がいたわ。ああ、そう、そうね。私が一緒に居てあげれば……誰にも、ええ、そうなの。誰にもあの子を渡しはしなかったというのに……ッ!」

「⁉ 待って、落ち着……っ!」

 

 

殺気が瞬間的に爆発した。

間近にいた平々凡々な私は、そのあまりの鋭さで体表面から削られて行くような痛みに全身が襲われる。

 

自分に言い聞かせるような独り言を呟く度に金の残光がその数を増やし、荒れに荒れた彼女の満月の瞳は私を見ていない。

吐きそうな表情で訴えかける私の顔を認識できていない。

 

 

「トロ――」

「叔父様の動向に、あの方の仇敵が起こし始めた不誠実な悪戯……嫌なことは続くものよねぇ……? 壊しても壊しても、新たな邪魔がチラチラと……遊びにもならない相手なんて鬱陶しいだけ……そうよ、どうせ壊すんだもの、いつ、どこが壊れたって――っ!」

 

 

ラッキーは何度も起こらない。

ただでさえ私は借運状態だと言われたのだ、ここで不運と運命的な出会いをしまうかもしれない。

 

それは死を免れられない!

それはやーです! 私、死ぬなら温かいフカフカの布団の中って決めてるんです!

 

「トロヤッ!」

 

スイッチもない凡人なりに、決死の思いで最も生存確率の高そうな方法を選び取った。いや、取っていた。

対象を刺激せず、殺気を収めさせ、錯乱状態を解消する。

 

その方法は――!

 

 

「――――ん、んんむ、もごもご……っ!」

「どうですか、あなたの大鉱物(好物)のお味は?」

 

 

チュラでよくやる、ガイアによくやられる、成功率100%の必勝技。

宥めとりなし、注意を引いて、ご機嫌を取るにはオヤツがいい。

 

さっきケケットが載せていたビー玉大の銀の玉、トロヤやヒルダ対策に数個だけこっそり失敬していた。通常の私ではキバも翼も防げないからね。

 

名付けて、『鉛玉が効かないなら飴玉作戦』。

 

大成功だ。

成功率100%の記録はまだ続いていく。

 

「んん……」

 

悩ましい声とは裏腹に、ガチィッ、ギギギ……バキャィイッ! という世にも恐ろしい金属音が耳朶を強襲する。

見ていると自分の歯茎が浮き上がりそうで痛々しいのだが、当の本人は大変ご満足いただけたようで、真っ白な雲のような瞼が満月を半分隠し半月となっていた。

 

 

「祝福はされていないけれど、純度が高い……とても美味しいわ」

「さいですか」

 

 

金属の味など知らないが、良い物らしい。

純度って言われてみれば確かに良品の意味合いは掴み易いけど……

 

 

「少し銅が混ざっていると独特な香りがあって、それもまた良い物なのだけど」

「さいですか」

 

 

それは分かんない。だいぶ分かんない。

ハーブとかターメリックとか、スパイスみたいな感覚?

ゲテモノを越えた食性だよ。

 

 

「ありがとう、クロ。私まで暴れてしまう所だったわね」

「絶対にやめてください。地形が変わります」

 

 

あわや桜の花弁が暴風に散らされる未来を迎えかけたが、普段の経験と先見の備えが活きたお陰で阻止できたみたい。

気まずさとか、どうでも良くなったや。

 

さてと、本題に戻ろう。

トロヤも銀分補給出来たでしょ?

 

 

って、おーい。

部屋に入っちゃうの? 予備知識なしでヒルダに会うのですか?

私、あの人の地雷を踏み抜くのが得意みたいだから、タブーワードを聞いておきたかったんですけども。

 

 

「あの――」

ヒルダ、入るわよ」

 

 

あ、そうですか。

良いですよ、取り押さえるのはあなたの役目ですし。盾になってくれればそれでいいんで。

 

せめて空洞の向こうに響く声色からヒルダのご機嫌を窺おうと画策する。

 

「あらまぁ、銀の良い匂いがしているわね。私に黙って美味しい物でも食べて来たのかしら?」

 

しかし、返事もトロヤの声。一瞬1人で会話し始めたのかと思っちゃった。

まあ、中にもいることは知ってたから驚かない。

 

というか、分離している間は別人みたいになってるんだ。

本体と分身体みたいな識別もないのかな?

 

 

「あらまぁ、ちゃんと金星を連れて来たのに……連れて帰っちゃおうかしら」

「――ッ⁉ 見付けられたの⁉ そう、そうなのね! それなら糾弾はしないわ、入ってらっしゃい、さぁ! 早く!」

 

 

(デジャヴュー……)

 

金星の名前、呼ばないって言ったじゃん。

態度が急変したし、手っ取り早いのは分かるけどさ、私をそう呼ばないってだけかい。

あっちのトロヤは銀分補給十分で暴れ出しそうにないが、名前を出した直後から声が上擦っていて、興奮の仕方も一緒で心臓に悪かった。

 

 

ここで深呼吸を1つ。

NOx臭いのは我慢して、徐々に呼吸を早めて心臓を一定のリズムで高鳴らせる。

 

武偵は極力、銃の精度を下げない為に心肺は落ち着かせるものだが、それは数発の銃弾で場を制圧できるケースに限る。

同業者や大人数を相手にする強襲任務中は鼓動が不規則だとタイミングを逃してしまうし、心臓を慣らせておかないと痛めちゃうからその準備だ。

(人間)場慣れ離れしたプロは、戦闘中もずっと一定らしいけどね。

 

トロヤがふぅーはぁー言っている私を面白そうに眺め、待ってくれていた。

その後、お先にどうぞと促されて入室を覚悟する。

同じ顔が向こうにもいるのか……

 

……あれ、あれれ? ちょっと待って?

私、トロヤ2人に前後から挟まれて発狂しない自信が無いんだけど。

 

 

試しに1歩。

 

 

トツ。

トツ。

 

 

(ふっ……やっぱり付いて来ますよね)

 

トロヤの暴走を諫めておいて言いたくないけど。

私が暴れ出したらおやつで優しく諭してね。コロッケ、揚げたてでしょ?

 

 

部屋に侵入した私は中を見渡そうとして、まず困った。

前方にいたはずのトロヤの姿が無かった、それ自体は別にいい。案内人は後方の1人で十分である。

言ってしまえば中は部屋じゃなかった。室内が廊下の続きみたいになって、さらに2つの部屋へ分岐していたのだ。

 

「これって……」

 

どっちですか?

と、部屋主であるトロヤに聞けばいいと思うじゃん? そう思うじゃん?

 

「いないじゃん……」

 

なんで! なんなの! なんでなの!

 

放置するにしてもタイミングがあるでしょ? そうでしょ?

何で分岐点直前で離脱するのさ! どこ行ったのさ!

 

中にいたトロヤが銀の良い匂いがしてるとか言ってたけど、人並み以上の優れた嗅覚で嗅ぎ分け……られる訳がない。

犬じゃないんだから。

 

(右か、左か)

 

ここで天啓。

そうだ、ハズレの方に危険があるなんて誰も言ってない、寧ろアタリの方が吸血鬼の潜むよっぽど危険な部屋に違いないのだ。

 

イッツ、ポジティブシンキング。

つまり、アタリの部屋を選べばストーリーは進行するし、ハズレの部屋を選べば一呼吸おける。

この選択肢は良いことづくめなので、両方アタリなのだ。

 

だから、適当に選ぼう。

何も解決していない地に堕ちた堕天啓に従い左の部屋に向かう。

 

「お邪魔しまーす……」

 

両方アタリの部屋でも、そこはあくまで悪魔の根城。

どっちも怖いので、恐る恐る中の様子を窺う。

 

(鏡……持ってくれば良かったな)

 

決闘に隠密なんて必要ないと思って、学校のロッカーにしまいっぱなしだ。

マニアゴナイフの磨かれた金属部分に反射する、歪んだ室内を観察した結果、敵影は無し。

 

タイを外してヒラヒラさせても反応がなく、呼吸音もないから使い魔の類も……いや、虫とかだったら探しようもないよ。

素人にはその辺が分からんのです。

 

「行けますか……? 行くしかないですか……」

 

有無もない。

ナイフを仕舞い込んで、代わりに予備用に1つだけ首襟の裏にセットしたままにしていたベレッタを構える。

 

(鬼が出るか、蛇が出るか……)

 

どっちも既にいるけどね、この秘密基地には。

吸血鬼とヘビ目の少女が。

 

 

ババッ!

 

 

一気に踏み込んで正面に銃を構える。

しかし、予め不鮮明ながらも調べていた通り、何者もいないぞ。

 

清潔な絨毯が敷かれ、オシャレなレースで縁取られたベッドの上には白地に黒猫がプリントされた枕。

壁かと思っていたのはクローゼットの扉だったようだが、ここって、もしかして……

 

(理子の……部屋か)

 

彼女はネコ派だと主張していたし、室内は仄かなバニラの香りがする。クローゼットに近付くとバニラの匂いはより濃く増していった。

 

なら、あのクローゼットの向こうはフィッティングルームで間違いない。

きっと甘い匂いで充満したスウィートルームならぬスイーツルームだよ。

 

日光が当たらないため観葉植物は置いておらず、電気の供給が不安定だからか電子機器の類も無く、部屋を灯す花傘電球も交換充電式のバッテリーだった。

目に入るのは各国のファッション雑誌やフランス語の難しそうな参考資料、日本の漫画と女児用アニメのDVDなんかが納まった棚。

 

私はその端に並んでいる鍵付きのノートから半差しで鍵の掛かっていない一冊を取り出す。

十字に巻かれた赤茶の革ベルトに銀色の鍵穴、オレンジとピンクのグラデーションカラーに白いドットとレース模様はいかにも女の子が喜びそうな装丁だ。

 

(日記だ。地下牢から解放されて、毎日欠かさず書いてるって……)

 

いつ、こうなるか分からないから。

だってさ。

 

 

はぁ、なんだってこんな。

とんだ大ハズレ部屋だよ。

 

しょぼくれたままじゃ根暗呼ばわりで追い出されて会えないし、気分を変えようと一冊の漫画を手に取る。

 

げっ⁉ 前巻から引き継いでいきなりの告白シーン⁉

んえッ⁉ 丸くて小っちゃい女の子がギター背負った鋭い眼の女の子に……って⁉

 

うわぁ……これは俗に言う百合という奴ですか。

バトル系かギャグ系が良かったな。でもこの作者さん、絵、綺麗だなぁ。

 

(1コマ1コマにこだわり過ぎな気もするけど、アクション漫画とは畑が違うみたい。それに愛が溢れてる……おっ?小さい金魚鉢を逆さまにしたような髪飾りをしたこの子、良く似てる子を今日見たな。あ、こっちもどっかで見た事あるタレ目顔だ……)

 

漫画の恐ろしいところは絵柄が好きでなくても、内容が趣味嗜好から外れていても読み始めると止まらないところ。

状況把握に労少ない恋愛漫画はパラパラとめくるスピードが加速するばかり。

 

ちょっ……ライバル多いな。これは誰に感情移入すればいいんだろ?

ってか両想いなのになんで告白失敗するのさ。あんた、昨日の夜は主人公に看病された光景を思い出して悶えてたじゃないか……ああーッ! 気になる所で終わったッ!

うーむ、同性に好意を持つことはあるものですけど、それがこの漫画みたいに複数の少女から同時に恋愛感情を向けられるなんて現実に起こり得るんでしょうか?

……とか、創作物にツッコンでも仕方ないね。

 

現実は小説より奇なり。

さて、次々――じゃなかった!

次は小説を越えたリアル奇妙こと、ヒルダの部屋に行かないと。

 

「行ってきます、理子さん」

 

今度この部屋に遊びに来たら、いらっしゃーいって言ってもらわないとね!

その為にはお帰りって、今度は私が言う番だ!

 

 

気分の抑揚はプラマイゼロのまま、退室からの入室は流れるように。

 

だってこっちはアタリ。

怖いものなんてヒルダとトロヤしかいないはずだ。

 

ベレッタ射撃準備よーし! 銀の玉の用意よーし! 緊急退路の確保よーし!

いざ、こっそりぃー!

 

 

「お邪魔しまーす……」

「いらっしゃい、クロ」

 

 

お出迎えは向こう側にいたトロヤ……あっ、あああ……⁉

ちょ、ちょ、ちょちょちょっ⁉ なんでぇッ⁉

 

淡色の紫、白のレースに髪飾りと同じザクロ色の紐リボン、フリル感満載の襟、裾、肩紐。実に肌触りの良さそうな素材で生み出された、ラフを越えたスーパーラフ。ランジェリーなんて最も隙のあるギリ部屋着と下着の狭間でしょ!

 

「む、む、むらたき! たんたんたたた、ふりるとりぼんがらんでりー!」

 

混乱で頭も舌も回っていないのか、言いたい事の一割も再現出来ていない奇声が木霊する。

うぎぎ……悔しいけど、彼女の人外めいたビアンコの肌は高尚な芸術品のようで、眩いばかりに人々を魅了する。

 

怪盗団に男の目がないからって無防備が過ぎる。

下着同然の出で立ちで歩き回らず、ガウンを羽織るとか……想像したら、似合わないけど。

 

「あぅあ……な、なんじぇそんな……下着だけ……!」

 

あっちのトロヤは直前まで服着てたじゃんという私の問いに、どうやら初めから脱衣済みだったこっちのトロヤは大した回答が浮かばなかったらしく、唇の上から自分のキバをクリクリと触る落ち着かない時の悪癖が出ている。

そんな色気のある格好で子供じみた挙動をしても滑稽に見えない倒錯的な魅力、ませた少女の幼気な容姿とのギャップに心臓が早鐘を打ち始めた。

 

「……? なんでって、体温を奪うのなら肌が触れる範囲を増やした方がいいのよ?」

 

何言ってんだあんた!

奪うんじゃなくて、空気に奪われてるじゃないか!

 

言ってることは分かるけど、言ってる意味が分からない。

何してたんだよ、ここで、ヒルダと、2人で!

 

「トロヤ……お姉様……? どこにいるの?」

 

キャアーッ!

ヒルダの声が聞こえるーッ!

ってかそこにいるーッ!

 

庶民にケンカ売ってるのかと問い詰めたくなるほど、拠点の1つに設置するにはオーバースペックな天蓋付きクイーンサイズベッドの上に寝転んでいる。

トロヤがけしからぬ服装で現れたから予想していたけど、あちらもランジェリー。色は濃いが仲良し姉妹で揃えたように紫色だ。

 

幻覚でも掴もうとしているらしき動作で、ヒルダの右腕が虚空を引っ掻いて探している。

間違いなく、自分から離れたトロヤを。

 

 

……あの状態を、私は良く知ってる。

 

「何もない。お姉様、どこかへ行かれてしまったのかしら」

 

(抑え込むために紋章ベリアリナライブを埋め込まれてるのか)

 

トロヤの催眠術は超能力と高周波を併用した遠隔での操作に近い。その催眠術の発信機となる銀――体の一部を紋章として埋め込んでいる。

一度埋め込まれてしまえば最後、彼女から離れても効力が弱まるだけで銀の束縛から逃げることは敵わないのだ。

 

思考を毒することはないが脳機能の一部を超音波によって遮断させることが出来る。その代表が神経系の阻害――見えない、聞こえない、喋れない等、まさに催眠術のフルコースである。

 

 

ヒルダさん、私です。クロです」

「早く助けに……理子…………」

 

 

ベッドサイドに膝立ち……してみたら思ったよりマットが高かったので中腰。顔の前まで近付いて名前を呼んでみるも、視覚と聴覚、嗅覚もやられてるね。

両脚をレザーベルト被覆の鎖で縛り付けられてるし、容赦はないが暴れた彼女を止めるのは容易ではなかったのだろう。

 

悪夢が再発する度に私は丸くなってカナに縋ってたのに、闇の眷属さんは光も音も得られない無の世界でも発狂しない精神力をお持ちようだ。

赤い両眼を閉じたその蝋の様な白い肌には、今は薔薇色の唇だけが鮮やかに色付いていて……

 

ヒルダ、お目覚めの時間よ」

 

眠り竜悴公姫ドラキュリア様の首から下は目の毒なので、そのお上品な顔に傷は無いかをまじまじとチェックしていた時、超音波の余波がキーンッと頭の中を通過していった。

私に向けられたものではないらしく、その解呪の呪文は聞き取れない。

凝縮された音の波はヒルダの頭の中で増幅し響いているのだろう。視線が吸い寄せられるままに接近していた私の黒髪をふわりと巻き上げる。

 

その時、借運状態の私に不幸の風が吹く。

反響する大きな音波同士が側頭部付近で衝突し、偶然合成する不運な事故が発生したのだ。

もちろん、計算されていない合成は本来持つべき意味を持たないノイズ。それが私だけに聞こえる爆音となって炸裂した!

 

「っつあぁッ⁉」

 

パーンッと風船が破裂する衝撃に似ていて、身を乗り出し気味だった私は体のバランスを崩し、ベッドが存在する前方に倒れ込んでしまう。

ベッドに顔から落ちるなら安心安全。しかし、死ぬ前に味わってみたい寝心地抜群のベッドには先客がいるのだ。このままでは形の整った貴族的薔薇の花弁に私の庶民的桜の花弁が……ッ!

 

さっきの百合漫画のぶち抜き1見開きが脳裏に浮かび上がる。

 

(とうるッァアーッ!)

 

心の中で男口調の叫び声が轟いた。

そこまでピンチを感じていたのだ。

 

右肘をヒルダの手前に、左手を奥について2点着地。

ベッドが沈み軋む音を立てたが、何事もなく切り抜けられた。

 

 

無事に……うん?

ヒルダさん、お顔の綺麗な装飾品が3つに増えました?

 

蝋細工の少女には、今や赤い飾りが3つある。

まずは最初からあった薔薇色の花畑、それから上方に美しくも可愛らしい鼻先小峠を越えた先で、ルビーの鉱脈が2つ並んで発掘されたようだ。

 

ぱちぱち。

と瞬く真紅の瞳。

 

要するに、キスもされていない眠りイバラ姫がフライングで目覚めた。

星銀の屍姫がお膳立てたこの最悪のタイミングで。

 

 

目が合った――――

 

 

「…………」

「…………」

「こんばんは、ヒルダ」

 

 

目を合わせたまま時が止まったように硬直した世界。

それを動かしたのもまた、あの月下の悪鬼。

 

状況を誤認したヒルダの顔が瞬く間に、急速に、瞬間湯沸かし器のように紅潮を始める。始めると同時に完了し、白かった肌はもう真っ赤っかだ。

あるよね、自作の色付きオシャレキャンドル。これはローズの甘い香りもして、いい仕事してますよ。

 

「ク……ロ…………? ――ッ!!」

 

あ、まずいまずい。

怒ってる。真っ赤だもん、激おこだよ。

退路は確保して……っ!

 

 

ガシィッ!

 

 

逃走失敗!

私が退くと分かった途端、寝起きとは思えない吸血鬼の速度と握力がいかんなく発揮された。

この調子だと電撃の調子も抜群ですね?

 

 

(スイッチ……スイッチが入りさえすれば……)

 

カチカチと空振るスイッチを、高速で繰り返……あああっ!一瞬点いたのに消しちゃったぁ!

寝起きでぼーっとしていれば言葉で騙くらかせたかもしれない。しかし、もはやヒルダの覚醒は疑う余地もない。

 

(だが諦めるな、武偵は決して諦めるな!)

 

力みだす真っ赤なお姫様の両手に、血を吸われたように蒼白な私は精一杯の笑顔を向けて、あらん限りのタスケテコール。

対フィオナ対策の妙技、ご機嫌取り。ね? ね? 許してちょーだい?

 

「私、言ったわよね? 『次に同じことをしたら倍の威力を喰らわせてやるわよ』……って」

 

あ、ダメだこれ。

こうなったら最終手段を取るとしよう。

 

「て、てへへっ? 何の話でしたっけー?」

 

忘れたフリ。

記憶にごじゃいましぇーん!

 

「忘れたとは言わせないわよ……クロッ!」

 

 

分岐はどっちもハズレだったよ。あと、私の選択肢も。

 

――――死ぬ前に、味わってみたい寝心地抜群のベッド。

 

死んでからじゃ、手遅れなんです。

死ぬなら温かいフカフカの布団の中って決めてますけど、死ぬために味わうくらいなら床で寝ますから……

 

 

タスケテ……タスケテ…………