黒金の戦姉妹33話 手繰の埒内
転校生。
私もそう呼ばれていた時期があったなぁ。
いつの間にかすっかりと、このローマ武偵中に馴染んでいたのだと気付く。
物珍しい東洋人の姉妹が出現とあって、当時は武偵中、武偵高の生徒問わずやたらに注目された。なぜか大半は私を遠巻きに眺めるだけで、近寄っても来なかったのに意外と傷付きつつも、来られたら来られたで困っちゃうとか自分勝手なことを考えていた気がする。
だからあの黒山の人だかりは、私の時には出来てなかった。
むしろ私の場合、あんな華やかな花火のような盛り上がりは無く、未だ遠目で追いかけてくる人が後を絶たない着火用の蝋燭みたいな持続力。はよう燃え尽きとくれ。
まあ要するに、
「クーちゃんヘルプミー!」
転校生は大変ってこと。
自己紹介で成功するとああなるし、失敗すると私みたいになるから匙加減が難しい。
始業開始時間からも人は増え続け、一体何クラス分集まってんだろうかという人口爆発の爆心地から英語が聞こえてきた。
助けを求める声はまっすぐに私へと届けられている。
「恋仲ッ⁉」
「新素材ッ⁉」
ガタッ!
他国からの転校生だなんて、トップを飾れそうなネタを意外にも遠巻きに眺めているだけだった
ガタッじゃないよ、座ってなさいよ。
なんでさ、何があなた達をそこまで駆り立てるのさ。
「掲示板立てたら勝手に伸びそうだし、遠くから見てるだけでもが十分な記事が書けそうだったけどー」
「メリナ・フォークトは取材対象……っと」
ブツブツと計画を立て始める2人。
どうせ碌な事を考えちゃいないだろう。
そういえば、
クラスが同じだけあって、パオラ達以上にいつも一緒な姿を見てるから、疑問を抱いてしまうよ。
「いそが……めんど……力及ばず、スマナイ……」
「わーん!クーちゃんの裏切りものーっ!」
例え暇だとしても彼女を助けるかどうかはまた別の話だが、放課後の作戦立案の方が最優先事項。
(悪いですね、あなたの事は忘れません)
私の視線に気付いて手を振るエマへの断罪イベントは後日に改め、腕を組んで唸る。
フィオナが仲間になってくれたこと、その時に彼女が誓ってくれた言葉が嬉しいからと頬を熱したバターみたいにへらーっと溶かしている場合ではないのだ。
ただでさえ決闘用にスイッチを温存しているのに、集中力まで失していては戦術の進捗は望めないだろう。
「フィオナさんの存在に一菜さんが気付いていた以上、確実に対策は立ててくるはず。接近戦の出来ない彼女を、一菜さんと陽菜さんの剛と柔の猛攻から私一人で守り切るのは難しいと考えるだろうし、実際キツイ。だからこそ、そこを制することで光明を見出せる。問題は……」
フィオナの狙撃で誰から攻略していくかだ。
地の利を得たのは私で、陽菜の技能を存分に活かせない平地を指定し、槌野子の準備を完成させない為の牽制弾を遮る障害物もない。
それに、視界が開けていれば能力の分からない兎狗狸と三松猫からの不意打ちにもある程度対処可能になる。
代わりに、フィオナが身を隠す場所も、狙撃距離を稼ぐ為の高所もないが、そこは……そう、私のフォローと彼女の技術でどうにかすればいい。
あ、一菜の遠隔攻撃を忘れてた。
あれって止められるものなのか?もし止められなければ、フィオナを守れない。
うん。なら、止めなくては。
初めから是非なんて関係ない。
2mの距離であの威力。
信じられないな。腕を振るうだけでそんな衝撃波が発生するわけがないのだ。
絶対に何か、種がある。普通の左裏拳に見せ掛けて、何かをした。
もしくは無意識に、何らかの発動準備が出来ていた可能性も捨てきれない。
もう1度、その機会があれば見極めてやるぞ。
「不確定要素……」
それを先に潰すか……
いや、そっちは私で対処して、最初の目論み通り槌野子への攻撃を優先してもらうか……
恐らく初手は陽菜の煙玉で、そこから前衛と中衛、後衛の散開・奇襲と戦闘準備が行われるに違いない。
自分達を隠すか、私達の周囲を覆うように使うかで対抗措置を変えるとして、ここの奇襲で負傷することは負けを意味する。
次は無事に切り抜けた後の前衛特攻とフィオナの反撃ターンで、私は2人の攻撃を捌き、フィオナが攻撃を担当、出来れば私の方でもどちらかをダウンさせておきたいが、欲張らず慎重に行こう。
序盤から正念場であり、数分間は視界を妨げる瞬きも動作のパターンを読まれる呼吸も最小限に留めて、視野全体を一点に集中するなんて矛盾した察知方法が、常に全員を一統に把握するように努めなければならない。
無茶に無理を重ね過ぎだよ。
せめて1人、2人が欠席か遅刻をしてくれれば何とかしてみせるのだが……
「クーちゃんお昼食べよー」
「……へ?」
もうお昼?
どうやら色々考えている内に授業は終わっていたらしい。
下手な考え休むに似たりとはよく言ったものだ。
グルグルといびつな黒丸が書き込まれたノートは今日の宿題はおろか、決闘にも役立ちそうにない。
「私、チームメイトの方と一緒に粛々と済ませる予定ですので、百鬼夜行みたいな有り様の方はちょっと。スマナイ……」
「救いの手を差し伸べてーっ!」
私の心配を余所に、学校の中は平和そのもの。
バチカンも表立っての戦闘行為を避けているのか、何者に敵意を向けられることなく過ごせていた。
パトリツィアがいない教室も、転校生効果で諍いは起こっていない。
後ろから聞こえる声は、良く分かんないです、はい。
昼休みは早々に教室を出て、フィオナと待ち合わせ。
場所は『BASE』という校内に存在する調理科の学生を主体とした食堂で、『戦場の安い材料で高級料理を!』を目標の1つとして掲げる通り、味の完成度は他のレストランには劣るものの、値段はメニューによって半額で提供されるものもある。
……ただし、料理の感想や店員の配給等の感想を書くことが前提で、運が悪いと相当に酷い事もあるのだが、そこは我慢。珈琲はほぼ確実に美味しいものが出て来るから、食後のエスプレッソを味わいしっかりと書くことは書く、それが次回以降の質の向上につながるのだ。
チラッチラッと入学した日から変わらない視線を感じながら、食堂入り口に掛けられたOPENの看板を尻目に入場。
キョロキョロと食堂にて待ち合わせていた仲間を探しながら、何を食べようか想像する。
この前はマルゲリータ、その前は素揚げナスのパルミジャーナ。ナスウマイ……
今は決戦前だし、日常を彩る味わい深いスープと質素でありながらその旨味を一手に引き受けられるパンで体の調子を整えようかな。
頭の中で無難な家庭料理であるミネストローネにしようか、複数の魚介だしで研究を続けられているカチュッコにしようか迷っていると、トレーにコップを1杯載せ、目を光らせた調理科の女子生徒の1人が席へと案内してくれる。そうか1BENEか。
案内された先には既に私の仲間が座っており、私の姿に気付くと食前の炭酸水をテーブルに戻して立ち上がろうとしたので、それにはストップを掛けた。
「お待たせしました。何を頼もうか迷っちゃって」
何故か後ろに軽く引かれた椅子へと腰を下ろす。
私だけ、扱い違くない?レストランじゃないんだから。
トレーのコップを震える手で私の前に置いた生徒は注文を取り、一礼のあとに入口へと戻って行ったが、次に入ってきた生徒は完全スルー。
そうだよね。ここ食堂だから、普通そうだよね。
客も店員も揃ってこっちみんな。
「お待ちしておりました。やはりクロさんは時間通りに来てくれますね」
チップは弾みませんよ、とかケチな事を考えたのは僅かな間隙。
私が姿勢を正面に向けるや否や、炭酸水を飲むタイミングを与えることなく、真面目な彼女は挨拶と若干の社交辞令から会話を始めた。
決闘の話をする上で、フィオナには一菜や私が参戦している箱庭の宣戦について、掻い摘んだ説明を行った。
私に協力すれば命の危険がある事も承知の上で、彼女は首を横に振らず、付いて来てくれている。
「クロさんが仲間でいてくれるだけでどれほど心強いか」
「大げさです。それに、立場が逆だと思いますよ。私がフィオナさんの力を借りるクライアント側なんですから。それも命がいくつあっても足りないような……正直、Bランクの任務が鼻で笑えるLDS600……いえ、700を超える長期の依頼と同等のもの。それで依頼料も要らないなんて……」
学生は無論、プロの武偵でもそんな高難易度の任務を受けられる人物は限られる。
私は裏の任務でカナについて行くことで経験があるが、フィオナには経験がないだろう。
私、その美術館で死に掛けたし。
その上、1度でも私と共に戦う事があれば、彼女はもう箱庭の中に囚われたも同然、敵国から狙われて、当分は一般的な武偵レベルの生活すら送れなくなってしまうのだ。
裏の世界――普通なら想像も出来ない超人達が命の遣り取りを行う世界には、悲しい事に私もカウントされているらしい。
フラヴィアもそう呼ぶが、"黄金の残滓"というなんとも厨二な非公式の二つ名で勝手に広まっている。
だから私は手遅れなのだけど、フィオナも引きずり込んで本当にいいものか……
「正義の味方の力となれるのに、どうして利益を求めるのかが理解できません」
だ、そうなのだ。
箱庭の話題を聞いてからというもの、どこか態度が変わっている。
ヒーローに憧れる子供か!ってくらい目が輝いていた。
LDSスコア700オーバーの依頼料の基準は分からないが、私が支払えるようなレベルではないのだろう。
現金一括や利息付きで出世払いと言われないのは助かる。
さらにフィオナの実力であれば、ある程度は通用するのは間違いない。
狙撃手は超人にとっても脅威に足る一種の能力者だと私は思う。
でも、だ。
一言物申させてもらえるなら、ひどく危ういんじゃないのかな、その考え方。
遠山の一族がこう言うのもおかしな話だけど、正義には犠牲が必ず付きまとう。
その犠牲を自分の身で補おうって考えが、彼女から感じ取れてしまった。
それではいけないのだ。
私だって、自分を犠牲になんてしたくないし、極力避けるべきだと理解している。
犠牲は新たな火種を生み、火種が炎となって平和を奪い、更なる犠牲が新たな正義を生んで、正義は最後に小さな犠牲を払う。
なんて完成された自給自足のシステムなんだか。
呼吸を荒くし、身を乗り出して言い切るフィオナは本気であり、箱庭の宣戦の事を話してから、彼女の中の私は報酬を求めない凄い人になってしまったらしい。
しかし、私の道は正義と自信を持って言い切れない、先の無い不確かなもの。
そんな道に誰かを心中させるつもりは毛頭ないのだ。
「必ず、何かでお返ししますよ。何だって構いません、フィオナさん。あなたの為なら、私はこの身を喜んで差し上げましょう!」
「――ッ!?」
なーんちゃって。
フィオナは頑固だから、簡単には意見を変えないんだよね。
お返しするつもりは当然あるけど、当方支払い能力が乏しい身でして……
利子無しの戦友特約出世払いって事で、ここは溜飲を下げて頂こう。
「さて、それでは作戦会議に移り――」
「……その言葉に、嘘偽りはありませんね?」
「えっ?」
え、なに?
この話続くの?
フィオナさんの目がマジなんですけど。
座席の近くを通過した生徒が中腰状態のフィオナに怪訝な視線を向けていたので、まず、座らせる。
それから、私の財政難(ロハが原因)を伝えて猶予を設けてもらう事にした。
「もちろん、冗談のつもりではありませんよ。ただ、すぐというワケには……」
「分かっています。個人で支払える金額では無い事も承知していますので、対価をそのまま払えなどと言うつもりもないです」
おお、良かった。
詳しくは知らんけど、700以上は個人じゃ無理な額なんだね。
窓口を通したら一体どれだけの紹介料と税金がかかるのやら。
いやいや、税金はちゃんと納めますよ? 中学武偵で窓口になる学校を通さないで依頼を受けるのは確か校則違反だもんね。
それ以前に怪しさ大爆発で、トラブル確定みたいなもんじゃないですか。
……直接どころか無償でやってる姉妹を知ってはいますが。
「うーんと、では私に何を求めるのでしょうか?」
彼女の口から法外な請求が来ることはないとは思っていても、何でもと発言したのは私の方。
朝には私に命を懸けるとまで言わせたのだ、多少の覚悟はしておかなければならない。
「約束が欲しいんです。私達が、もしもチームでなくなっても、味方でいてくれると。それで……もし武偵高に進んだとしたら……」
「……ごめんなさい、フィオナさん。私がこの国にいるのは、姉さんの留学の期間だけ。それに、もしかしたら私はこの箱庭で――」
「いいえ、違うんです!チームを組めと無理を通すのではなく、あなたには変わらないでいて欲しいんです。味方というのも私ではなく、正義の味方としてあり続けるって、道を踏み外した悪を誰であっても正しく裁いてくれるって」
それはバカにした言い方でもなく、冗談で場を和ませようという意思もない真剣な顔で、報酬を求める立場の人間には見えない、頭まで下げて頼み込むようなお願い。
脱帽しないのは彼女らしいが、どうしてそんな事を報酬として求めるのか。そういえば初顔合わせでも出会い頭にも似たようなことを言われたっけ?
(にしても、正義の味方ねぇ……)
こちらとしては、家訓にもあるし元より異存はない。
結局無報酬と変わらないのでノーカンにしようとしたのだが、彼女の揺れる瑠璃色の瞳で心を締め付ける様に
どうにも別の所に真意があるようで、深入りすると距離を置かれてしまいそうだ。
「私は正義の味方などではありませんよ」
だから、こちらが少し身を引いて、その真意を聞き出そうとしたのだが……
「そのままでいいんです。あなたは……クロさんは、クロさんのままで、私の希望であり続けて欲しいんです」
これ以上の問答は不要。
はい。か、いいえ。で答えろと、暗に言われた。
RPGだったら、はい。と答えるまで無限ループに入るイベントシーンだが、これは現実。
いいえ。と答えれば、彼女は二度と私に振り向かなくなるかもしれない。
答えなんて決まっているはずなのに。
それを口にするのが大きな
「……はい、分かりましたよ」
「――ではっ!」
私の申し出を受けて頂けるんですね?
その声が辛うじて耳に届き、頷くことで肯定の意を表した。
たった今、私は自分の意思で彼女の願いを受け入れる事としたのだ。
正義の味方として生き、相手が誰であろうと公平に裁くようにと念を押されたが、
頬が痛む。
前にもこんなことがあった。
前兆もなく、注射の後みたいなじんじんと一点から広がる痛み。
頬を触っても異物は刺さっていないから、きっと気のせいなのだろうけど。
その前後には決まって小さな少女の笑い声が聞こえた……ような。
「私からはそれ以上の望みはありません。では、作戦会議をしましょうか」
次第に心の整理を終えたフィオナが水分を一口含んで、私の追及を避けるように話題を変えた。
いつからだろう、そんな彼女からは甘ったるいミルクチョコの香りが広がっている。食前チョコでも食べて来たのか?
新しい文化だねフィオナ。
「一菜さんの強さは主観的にも客観的にも良く分かっているつもりですから、入念に練らなければいけません」
「同意見です。何度シミュレーションを行っても、あのスタミナお化けの止め方が分かりませんよ」
いくら一菜が私より打たれ強く、体力が無尽蔵だとしても銃弾が当たりさえすれば負傷する事に変わりはない。
当たりさえすれば、止められるのだ。
しかし、力任せで型の無い彼女の野性的な動きは捉えづらく、高速で直進する彼女は射線を正確に読み切り、反射的に銃弾を弾く。
当たらなければ、止められない。
止めるなら……決着を付けるには、私が気を引いてフィオナの狙撃を当てるか、あの暴力の化身を接近戦で制するしかない。
どちらにせよ、妨害を受ける可能性がある内は止めようもないな。
隙を見せれば確実にあいつは踏み込んでくる。
「3人から2人に減ると、一気に戦術の幅が狭まりますね」
「戦術と言うべきかも怪しいですし、大筋を決めたら結局はコンビネーションがものを言うでしょう。その点、私達なら大丈夫ですよ。私はあなた(の狙撃の腕)を何よりも信頼していますし、何があっても(戦術的にも)大切なあなたの事を守りますから」
「
なぜ、そこで慌てふためいて赤くなる。
折角考えて来たのに、戦術じゃないって言われたからプンプンなの?
そこまで慌てなくても、戦術を軽んじている訳ではありませんって。
「フィオナ――」
「た、たちゃ、確かに数的不利な場合は、状況の変化に行動の大半が左右されてしまいます。増して、不意打ちならまだしも決闘では1人1人のウェイトが大きいですね」
彼女はすぐにテンパるなあ。
声を発している内に気分が落ち着く性分みたいだし、チョコレートの香りが鎮静剤になって復活は早いんだけど、これもBランク止まりの不安材料なんだろうな。
「せめて私が接近戦をこなせれば、それだけで劇的に変わるのに……」
テーブルの下に置いた手を悔し気に握りしめた彼女は、かすんだ声を弱々しくさせながらも、変えようのない事実を嘆いて呟いた。
彼女の言う事は最もだ。
私が守らなければならないという事は、フィオナの狙撃は常時2人分のコストを必要としている事と同じ。
2人いるのに、戦力的価値は1以上2未満に留まってしまう。
だが、それでも戦力アップには違いないのだし、同様にフィオナの弱点を突こうとする一菜の作戦を逆手に取った策も考案済み。
フィオナが接近戦を出来ないことを利用した、ちょっとだけ危険が伴う方法であるも、彼女は快く引き受けてくれた。
「……なるほど、その方法なら1人は道連れに出来そうです」
「やられる前提で動かないでくださいよ。あくまで最後の手段として、身の危険を感じたら使ってくださいね」
「分かっています。それに、私だっていつまでも無策で守られ続ける気は無いですよ」
「ん?それはどういう……」
そこでさっきとは違う店員が近付いてきて、興味深そうに聞き耳を立てていたので会話は途切れさせた。
声を掛けられずに困っているのかと思いきや、振り返るとまさかの春色の顔。
しかも調理科唯一の知り合いである。
(なんでこの人は興奮してるの?恋バナを聞いていた訳でもあるまいし……)
彼女には突っ込むだけ無駄。
全てを曲解した上で拡散ブログを上げる情報テロリストだし、用件をさっさと済ませて戻って頂こう。
どうやら私の注文していたスープとパンを届けに来たらしい……おや?
……こういうのって、気が付くと我慢できないよね。
「ヤージャさん、それは新しい髪飾りですか?」
「んめ?」
言うよりも早く立ち上がった私は、彼女の硬い髪質のショートヘアを梳くように指を滑らせてそれを掴む。
同時にそれの存在を悟らせぬよう、髪の隙間へチップを包んだチューリップの折ナプキンを差し込んで気を逸らした。
この手品、ちょっとカッコつけた感じで見せ付けるとより効果が増大する。
その証拠に……
「あ、あれ?こんなの付いてたっけ――ッ!?あ、あっあ、そ、クロさ……!ご、ごちそうさまでしたーッ!!」
ほらね?
この技は、姉さんに借金をしていた貧乏時代に、より少ないチップで勘弁してもらうために編み出した外道技。
スイッチを用いれば、それこそ店員さんの服の内ポケットに忍ばせる事も容易なので、それはそれは喜んで頂ける。ウィンウィンな技だよね。
彼女はスープとパンを給仕する直前までは我慢できたようだが、そっと食器をテーブルに載せた直後には、厨房へと走り去っていった。
当然、良い事ばかりじゃない。
ヒューヒューという口笛、拍手喝采、カメラのフラッシュは華麗に回避。
そう、弱点はこの周囲の盛り上がりで、それはそれは鬱陶しい。ファジーファジーな技だよね。
「……クロさん、何してるんですか?」
あら、冷たい声。
ギロリと鬼のような顔でフィオナが睨んでいる。
ごめんて、騒がしくしたのは謝りますよ。
「これが彼女の頭に付いていたんです」
「――ッ!?」
しっかりと説明責任を行う為に開いた右手には、1匹の蜘蛛。
手の平にチョコンと丸まった小さなその体色は、ヤージャの髪と同じココナツブラウンで、まるで擬態するかのように隠れ潜んでいた。
髪の毛に蜘蛛が付いてますよ、なんて指摘出来ないじゃないですか。
それも調理科の生徒が配膳中ともなれば、混入問題に発展してしまうかもしれないし。
しばらく様子を見ても変色する気配もなく、逃げ出そうともしない。
この蜘蛛は果たして自分の意思で、自分と同じ色のヤージャの髪に飛び込んだのだろうか?
命令を待つロボットみたいに行動意思を表さないのが不自然で、このまま逃がしても良いものか迷ってしまう。
蜘蛛をじっと観察する私を、フィオナがじっと観察している。
そして先に観察を終えたのはフィオナの方だった。
「クロさんって、本当に色々と見た目とは真逆ですよね」
「へっ?何のことです?」
少しだけ呆れがこもった声で、観察結果がもたらされた。
――そこがクロさんらしい所なんでしょうね。
って、なんか馬鹿にしてません?
仕方ないな、この際チームメイトの視線は気にするまい。
蜘蛛は大人しいし後で逃がすとして、折ナプキンのお家を作ってあげた。
捕食者から逃げ延びたと理解したのだろうか、蜘蛛は中でもぞもぞと動き始める。
ほらほら、この子も気に入ってくつろいでますし、一件落着だよ。
さてと、折角のスープが冷めてしまうな、手を洗って来よう。
席を立つと、フィオナが何かを言い掛けて止めた。
再びテーブルに戻った時、蜘蛛はいなかった。
フィオナに聞いてもずっと見ていた訳ではないから気付かなかったらしい。
私が作ったお家には――
『
私が頼んだミネストローネはキレイな茜色だったのに。
美味しいという感想以外には。
なんの味もしなかった。