黒金の戦姉妹27話 箱庭の宣戦(前半)
また、夜ですよ。それも曇り空。
何かが起こるのはいつも夜だが、悪目立ちしたくない立場上こちらにとっても都合が良いので文句は言うまい。
それに暗くなればなるほど私の戦略は有利に働く……少なくとも吸血鬼に襲われるまではそう思っていた。
右も左も、前も後ろも神殿や遺跡に囲まれた道を歩いていると、ローマに来たばかりの頃に姉さんと観光した思い出のアルバムから、この場所を回った記憶だけが写真付きの切り抜き記事のように殺到する。
フォロ・ロマーノとか、観光名所の1つとして名前を聞いたことがあった程度。『本命はこの先のコロッセオでしょ!』なんて考えていた私は、長い歴史がこの場所に凝縮されているのではないかと感じて、クルクルと首を回して見回しながら、グルグルと目も一緒に回していた。
結局、神殿の違いはサッパリ、名前もバッチリ分からないままではありつつも、この地に息づいているローマの軌跡が垣間見えた様な気がしていたのだ。
続けてフォロ・ロマーノを抜けると、急斜面ではない坂がのぺーっと、丘の上まで続いている。
そこから一望する景色はさっきまで1つ1つの建物に感じていた迫力と違って、一時代の集積。全部乗せ丼みたいなお得感で写真映えが凄い。
この丘はパラティーノの丘。聞く所によるとどうやら富裕層の宮殿跡地的な観光場所との話だったが、とにかく広い。暑い時期であったことも相まって、標識の少なく脇道の多い進路を巡り終わる頃にはへとへと、コロッセオに出来た長蛇の列にげんなりした。
姉さんに休憩を申し出たら、『昼食にしよっか、明日までもう1回だけならチケットが有効だから』との流れになり、アイスを買って帰ったっけ。
ローマの歴史に比べれば私の人生の歴史などほんの一瞬だが、私はその一瞬の歴史の中の一瞬の間に、ローマの永い歴史の一端を知ることが出来た。
よくよく考えれば不思議な話だ。実際に流れる時間と認識する時間の差異は、状況によって容易に変わるものだということか。まるで私達の能力みたいだね。
金一兄さんのカナモードは睡眠でバランスを取っているが、スイッチによって得た加速は……一体そのバランスはどこで取られているんだろう?
……そんなこと、今は置いておこう。
私は文句を言いたい。言わせてください。ありがとうございます。
「この招待状は不備があると思います……」
集合場所が漠然としすぎてて困るのだ、迷子になってしまったのは私に責はないと強く断言させて頂く。広いんだよ、目印の旗でも煌かせてくれればいいのにさ。
文句を言っても詮無いこと。愚痴をこぼしながら、ただひたすらに坂を登り、だだっ広い丘を夜散歩。
宮殿への道は整備中だった事もあり、正直な感想を話すと、丘の上は散歩中にウミネコ爆弾(フン)を華麗に回避した記憶が強いだけで、地形はうっすらとしか覚えていなかった。
どっかに会議場みたいな場所があったっけか?とキョロキョロしても、薄暗い散歩道には
「姉さんには電話がつながらないし、一菜さんとチュラさんは電源を切っているみたいだし、フラヴィアの電話番号は分からないし、ヒルダ一派に至っては持ってるのかどうかも怪しいし」
この招待状を読んで迷子になっているのは私だけなのだろうか。もしそうだとしたら、慣例として集合場所は決められているものだと思う。
だって分かんないじゃんか。集合場所を満員の東京ドームですって言われてるようなもんだし、しかもその集合地点が2階席の真ん中辺りのようなもの。総当たりの合流にどれだけ掛かると思っているんだ!
迷い始めに芽生えていた心細さは、感情が荒れる事で薄れて残っていない、そこは助かった。
でも、辿り着かないと私は不参加になってしまうのだろうか。
困った困ったと頭を悩ませつつ、尚も夜散歩。
コロッセオが見えて来たじゃないか。抜けちゃうよ、この丘。
「
「――ッ!」
油断はしていたが、少女が声を掛ける直前まで気付かなかった。
つけられていたのは知っていたが、こんな近くに居なかったはずだ。
「わた……私に何か御用ですか?」
振り返るとあからさまに怪しい人物がいた。だって低い身長に不釣り合いなつばの大きい中折れ帽を被って顔を隠していて挙動不審なんだもの。思わず私もキョドってしまった。
自信無さげに押し殺している子猫の鳴き声のような高い声は、会話したくないんだという本心が重みを持ち、声を引きずり落として行くものだから、あんたは地面に話し掛けてんのかと聞きたくなる。
「S,Sorry. Japanese?」
(英語で良かった。ドイツ語とかブルガリア語だったら無理だもん)
日本人だから英語で話しかけてきたのかも。
怪しい勧誘かもしれないし、一旦イタリア語でお茶を濁そう。
「Sì,
「Um, Umm...Chinese?」
「No」
「Ummmm...」
……すごく困っているみたい。
イタリア語の挨拶すら出来ないんだもんな、ちょっとひねった回答をしただけで降参らしいよ。
少女はうまく切り返す方法が見つからず、その場で考え込んでしまった。怪しいとはいえ、ちょっと可哀想だったかな。
当初の目的を果たすなら放置して急がなければならないのだが、もしかしてこの子、こんな時間にこんな場所(夜間立ち入り禁止)にいるって事は箱庭関係者?集合場所を知っている?
それなら話を聞くべきだ。
しかし向こうから尋ねて来たのにこっちが先に質問しては申し訳ないので待ってみる。
「"あむむ、
(日本語か……)
またしてもだ。ヨーロッパでの日本語の使用率高くないかな?しかも厄介な奴に限って。
フラヴィア然り、ヒルダ然り。
言わずもがなスイッチをONへと変え、相手の観察も同時に開始する。
一手目で何もしてこなかったのだ、不意打ちの心配はないと思うが念には念を込めておく。
「"……話せますが、日本語での会話をご所望でしょうか?"」
「"イエス。
「"ほしいす……"」
日本語はカタコトで会話は可能。少女は対話が出来た事に胸をなでおろしていて、その影響か落下せずに私の耳へと辿り着く単語がちょっと増えた。
黒い帽子には缶バッチのようなものが飾られているが、暗いために表面に掘られた文字や記号は識別不可。
気になるからちょっと貸して欲しいす。
それと、英会話はカンペキではないので日本語でお願いしますね。
「"私に何か御用ですか?"」
「"お願いしす、地理が分からなくて迷子なんす"」
ほほう、あなたも迷子でしたか。これは奇遇ですね――
――って、そんなわけあるかいっ!
つまりこの少女も箱庭の参加者確定だ。
うんうん、言われてみれば強そうに……は、見えないけど、服も……まんま一般人だな。
そう、帽子!帽子がヘン!靴も変な形だし、何と言ってもマント!これは裏の人間ですね、間違いない。
「"どこに行くつもりだったらこんな場所に来てしまうんでしょうね?"」
皮肉を込めて、お前の正体には気付いているぞアピール。
え?気付かない奴はいないって?
……さあ答えろ、悪いが私も迷子だ。今だけは仲間になってやろう!迷子仲間だ。
「"ホテルに帰ろうとしてたす。今日1日泊まって明日みんなで帰る予定す"」
「"あれ?あれれ?帰る途中ですか?"」
(どゆこと?箱庭、終わっちゃった?それともこの子は冗談抜きで道を見失ったがためにここへとたどり着いたのかい?)
とうとう交わされた黒とフューシャピンクの視線は僅かな幕間で逸らされて、再び真っ黒なつばに遮られた。
風に揺られた赤いひなげし色の帯が2本はためき、ほんのりと光を発するように宙をたゆたっている。
「"ホテルはどっちす?"」
「"ホテルなら至る方向にありますよ。建物の名前を教えて下さい"」
『
「"ウィッチズ、はみ……はーみてーじ?"」
はーみてーじってなんだっけ。
名前も聞いた事の無い建物だったが、意外と近くにあるらしい。
というのも、迷子になっておきながら地図を持っていたのだ、目印付きの。しかも地図上の見た目が一軒家。ホテルじゃなくて民宿だし、どうりで聞いた事が無いと思ったよ。
必要なのか微妙な距離だが、一応道順を教えている間、つばが体にまあ刺さる事刺さる事。
直接的に『邪魔』とも言えずそのまま説明を終えると、一礼をして最後の一発。わざとじゃないよね、
「"ありがとうございす"」
「"最悪はコロッセオ前でお友達に電話した方が良いですよ。ヘタに動き回ると場所も伝えられないでしょうから"」
「"あむ、迷うとそうしす。また会えたらお礼がしたいす"」
え~……あまり会いたくないな。
その時は普通の服装で来てね?昼間にその出で立ちはアウトだと思うんだ。
歩き去っていく後ろ姿をずっと眺めている訳にもいかない。私も行かなければならない場所が近くにある……はず。
「"はぁ……目印の付いた地図が欲しいす……"」
その呟きは地面ではなく、空に向かって投げ放たれた。
―――――――――――――――――――――――――
シャンデリアに照らされた広大な室内に、複数の人影が存在する。
その姿形は様々で、ある者は長身で古めかしいスーツに身を包み、ある者は極端に少ない布地に権威を見せ付けるような豪華な装飾品で飾り立て、ある者はどこから見ても確認できるほどにイメージ通りな魔女の格好に眼帯をして、軍服を着込んだ女性の傍らで控えている。他にも数名の存在が
「――そう言えなくもない、でもそう断言するには短慮というものだ。君の言い分も間違ってはいないだろうし、核心をついているとも言える。でも、それはある一点についての狭い視野で成りつもの、鬼の目にも見残しだよ。完璧ではない推理は本人のみならず、多くの眼を曇らせてしまうものだからね」
「……むぅ」
男性の諭すような言葉に反論は出来ずとも納得も出来ず、黄金をジャラジャラと鳴らした少女は口を思いっきりへの字に曲げながら不機嫌を隠すことなく唸る。
『教授』と呼ばれ、この異様な集団のリーダーを務めている男性に表立っては反抗の意思を向けることはない。しかし、内心ではその地位を我が物にせんと謀っていることは、男性を含めた全ての者が知っていた。
「ケケケッ、お前も諦めがわりーなァ、パトラ」
「だから予ねてから話しているでしょう?箱庭の主が活発な行動を見せている限りヨーロッパ内で戦争なんて起こせないのよ。世界征服を果たしたいのなら、世界中に争いの種を蒔いて紛争を起こしておけば勝手に疲弊してくれるわ」
「それではつまらんのぢゃ!贄がのうては真に世を得ることは敵わんであろう!」
茶々を入れる黒ローブの少女とこれまたガイダンスのように初歩的な教え方をする女性に駄々っ子のように当たり付けるが、この流れも常習化したもののようで特に角が立つこともなく『あら、そう』と打ち切られる。
続けて声を上げたのは金髪白人の美少女なのだが……
「あの、パトラ様、紛争で得た生贄ではいけないのでしょうか……?」
「チマチマとやっていては時間が掛かる。妾は待つのは好きではない!」
「ご、ごめんなさい……」
世界征服を電撃戦で終わらせたいなどという無茶ぶり、その不条理な八つ当たりに晒されてシュンとしているあたり、場にそぐわない気弱な性格だと言えるだろう。
「パトラ君、君には力があるけれどそれは主には及ぶべくもない。僕に指一本触れられないようでは、砂粒の一粒ですら触れられないよ。リンマ君の話では竜落児である彼女のお母様も勝てなかったそうだからね」
「そのくらい分かっておる。故にあの催しに参加しておるのぢゃ、思金を得る為にの」
箱庭の主が開催する宣戦、議題はそこだ。
思金同士の性能試験から始まったこの小さな戦争は、箱庭の主によって乗っ取られた。
主の絶対的な力を恐れて世界規模の戦争は抑制された。彼女の存在は『核兵器』そのものなのだ。
今では思金を求めて争う他国も登場し、戦争の代わりとして覇権を奪い合っている。それこそ、主が望む宣戦。
「おいパトラ、お前は1つ持ってるだろ、こっちに寄越せよ。イタリアの思い主は自分からここに来たけど、おかげであたし達はよりによって気味の悪いフランス人形共を相手取ることになるんだぞ!」
「こら、カツェ。彼女は同盟者よ?粗暴な態度を取るものではないわ。それに、狙うならスペインかイタリアの方が遥かに楽、失敗作の思い主なんて簡単に見捨ててしまうでしょうから」
部下の口の悪さを諫めている様子は母親か姉かといった風だが、カツェと呼ばれた少女は崩れた姿勢を慌てて修正しながら深く詫びる。
既に戦利品の取り合いをする事に異議はないようで、目的としては後ほどフランスの思金も手にするのは変わらない。しかし、目下の狙いは以前に見つけたはぐれ者の思金なのである。
「うまく手に入ればオメーは連隊長かぃ?」
しょんぼりしたカツェにそんな話題を振ったのは腰の両端に槌、背中に大型の筒を背負った女性。汚い言葉遣いは似通っているが、偉そうな態度はこちらに軍配が上がるだろう。
「あー……そのことには触れんな、まだ分かんねーんだよ。アイツもアイツで頑張ってるみたいだしな」
「しばらく音沙汰ねーだろ?」
2人の会話はここにはいない級友についてだ。
潜入任務に入って以来、もう数年戻っていない。
「ポウルが中継して、色んな情報が入って来てる。特にバチカンの動きは事細かにな」
「そりゃ、大活躍なこって。つうかよ、ポウルって呼んだら怒んじゃねーかぃ?」
「ケッ!慣れねェーもんだぜ」
遣り取りを終えると、横から口を挟むようにみたび男の声が集団の中に響く。今までで一番良く通る声で、全員に注意喚起をするかのように……
「おや?イヴィリタ君、君にしては少し情報が古いのではないかね」
「……シャーロック卿よ、発言の意図を測りかねますが?」
「スペインの思い主に軽々しく手を出すのは止めておいた方が良い、と言えば後は分かるかな?」
女性は渋面を浮かべて数秒間、考え至るたびに目を開き、そんなはずないと首を振って目を閉じるを繰り返した。
最後には悔し気な表情のまま、唯一導き出された苦し紛れの答えを口に出す。
「……まさか、2人の人間を恐れろなどと言われているのでしょうか」
「ご明察、そのまさかだよ。恐れるべきは組織の大きさや歴史の古さだけではない、僕達の存在がそれを証明しているだろう?同時に数は力であると共に絶対的な個には敵わない事も証明されている」
そこまで言って話を切った。
すると、一言も話さずに話を聞いていた少年が会議の内容に初めて興味を示して立ち上がり、連動するように背中合わせで座っていた少女もむっくと起立する。
「
「カナ武偵……ひと月前にジャンが話してたヤツ?」
「ああ」
イヴィリタとシャーロックの話を肯定するように2人の人間の名前を挙げた。
「会ったことあんのか?」
同じ服を着て同じ声のトーンで話す少年少女を見て、カツェが問い掛ける。途端に少女の方は黙りこくってしまい、少年だけが顔を向けて返答を口にした。
「オレの仕事を邪魔された。直接会ったことはない」
「そりゃぁ災難だったな、ご愁傷さまだぜ」
いくらやられた?という質問の答えを聞いてゲラゲラと笑う魔女にジャンは恨み言をぶつけない。
ひとしきり笑い終わり、腹を抱えた手を退かしたのを見計らってもう1度口を開いた。
「同じ目に遭わないように忠告しておく。夜間に黄金の残滓とタッグを組んでいる時は手を出さない事だな。ドイツの魔女結社とは反目してるが、勇名がドイツにまで広がれば余計に部下共が委縮しちまう」
「あ?何言ってんだか分かんねーぞ。その黄金の残滓ってのはなんだよ、使い魔か?」
「通り名だ。カナ武偵は超能力者ではない。黄金の残滓とはその妹のクロ武偵を指すイタリア、フランス間の裏業界で使われている渾名だ」
「姉妹揃ってつえーなら、遺伝性の能力者かもな」
あーヤダヤダと竦めた肩に1羽の烏が飛んできて止まり、耳打ちをしているように見える。
知性を持つその生き物は魔女と契約を結んだ使い魔と呼称され、ただのマスコットに留まらず情報収集や戦闘の補助に奔走する。
とりわけ烏や梟、蝶や蜻蛉などの翼を持って飛翔できる使い魔は様々な役目を果たし、狼や蛇、山羊や猫といった鋭利なツノ・ツメ・キバを持つ使い魔は戦闘で大いに役立つ。
「おっ!エドガー、箱庭の様子はどうだった?」
「ホホ、英雄のご帰還ね」
エドガーの名を与えられた烏は主人となった魔女へと忠実に仕え、自身が見た情報を伝えるべくテーブルの上に用意されたボロボロの布の上に降り立った。
布には多様な記号がずらりと並べられその1つ1つに複数の意味があるのだが、これは契約した者同士でしか伝わらないように使う記号と使わない記号を取り決めている。結果、記号の持つ意味が変わり、世界でエドガーの言葉が分かるのはカツェだけとなるわけだ。
黒い羽を砂埃で汚した烏はテーブルの中央に置かれ
当人たちは慣れていないのだろうか、その一挙手一投足に緊張の色が見られるが、前に横にぴょんぴょん跳ねる烏もそれを一心に眺める少女もどこか微笑ましい光景に感じられる。
「変わらないな。伝統は大事だが、カメラを付けてやった方が早いんじゃないのか?」
退屈そうにソファへ寝転がるパトラを差し置いて、魔術の世界に明るくないジャンがまどろっこしそうにその様子を眺めていた。
「主は記録に残ることを激しく嫌うわ。特に写真やカメラなんかの類には過敏に反応するの」
「だから今夜は衛星軌道もあの場所を通過しない、撃ち落されでもすれば大きな損害になるから誰もそうしようとしないんだ。僕には使い魔の使役は真似できないからね、彼女達が来てくれて助かったよ。いや、正式には出来ない訳じゃない、ただその方法を実行するには確実性が不十分だし時間が掛かり過ぎる、やはり餅は餅屋だという事だ」
「……巫女戯た話だ。規模が違うな」
裏でそんな雑談が続けられている間も、コインの叩き付けられる音がコツコツと広い室内の一角に響き、すぐに消えて行く。
ついにはコツコツ、コンコンとリズミカルに奏でられた音が途切れ、逆十字徽章は再びテーブルの上に添えられた。
足取りはフラフラと安定しない。それも当然だ。
この場所から箱庭の宣戦が開催されるパラティーノの丘は近くはない、さらにローマ市内とあってはいつ教会の手の者に襲われるとも限らないのだ。
「シャーロック卿、そこの籠をお借りしても?」
「構わないよ。元々こうなることは分かっていた事だからね」
疲弊した体で主人の元に舞い戻った黒烏は、不安そうな表情の少女にカァーと一鳴きして心配ないと言い残すと、籠の中で休み始めた。それでもカツェは籠から離れようとせず、イヴィリタも微笑んでそのままで良いと話を促した。
「どう?箱庭の様子は。あの子の状態から、慣例通りに事が進んだように思えたのだけど」
「ご報告申し上げます。私の使い魔――エドガーから伝達された内容は3つ」
辺りはシンと静まり返り、その報告が如何に注目され重要視されているのかが窺える。
たった1羽の使い魔がもたらした情報に、世界の強者が目を、耳を、心を奪われているのだ。
そして似たような報告が、様々な手段で別の場所に集った世界中の超人たちに伝わっている事だろう。
「1つ。箱庭の宣戦は無事に開催されました。今回は日本というイレギュラーな存在の参加も加味され、参加国はおおむね予想通り12ヶ国の参戦となっています」
「あら?13ヶ国になると予想していたのだけど」
カツェはそのことについては後ほど、と付け加えると水晶を片手にもったパトラの方に向きながら続ける。
「2つ。同盟は最大数の3つ出来上がりました。まずは私達、ドイツを含むオーストリア、エジプト、ルーマニア、ブルガリア、そして……」
「……増えたのかぃ。ビビって結んできた腰抜けって事はねーか?」
「イタリアが2つに分かれました。以下、ローマとバチカンの呼称にて区別します。ローマは同盟を申し出て、それを5ヶ国が承認する形です」
「なんぢゃと!?パトリツィアには内側から崩すように伝えろと言っておったではないか!ハトホルの奴はなにしておるのぢゃ!」
議題が変わってもギャンギャン騒ぐ少女は無視し、さらに報告は次項へとめくられた。
同盟が3つ出来たという事は後2つ、彼女達にとって敵対する同盟があるという事。残された国々の内、一体どことどこが手を結ぶのかはスタートラインに立つ第ゼロ歩なのだ。
「分裂したバチカンはフランスと手を組み、フランスはロシアを引き入れました。イレギュラーな日本はイギリスと同盟を締結。スペインはフランスと日本の同盟を拒否し、無所属となった模様です」
「……ハンガリーとトルコはどうしたのかしら?」
「トルコは元より不参加、ハンガリーは参加資格を失い代表者は最初の犠牲者となりました」
犠牲者という単語に、誰も感慨を抱いていないのは明白、参加資格を失ったのであれば当然の事だと認知されているのだろう。1人だけ白い顔を真っ青にして俯いた少女がいて、悲愴な結末を想像して瞼を閉じた。
そんな中、少年が笑いもせず同情なんて感情も無く、その不幸な代表者の安否を興味本位で尋ねる。
「死んだか?」
「意識不明だけど、あの場には医師免許を持つ奴が数名いたらしーぞ」
「運がいい。大抵は捨てっぱなしだからな、墓守の仕事が減る」
さも適当な会話に、顔をキラキラと輝かせたのもまた1人だけ。
どうでもいい報告はすぐさま過去の話と割り切られた。
「さて、ここまでは僕の
「シャーロック卿、その言い方だとあなたの
普段は敬語を用いることなど無いが、上司の手前、その男性には敬称まで付け加えて丁寧に接している。
しかし、攻撃的な性格までは隠し通せず挑発的に、最後の方は少し乱暴な話し方に戻ってしまった。
「なぜだろうね、恐ろしい事に彼女達の行動は読めないんだよ。オリヴァ君が初めて僕の下に訪れた時もそうだったけど、枝分かれした未来予想の全てが元の道に繋がってしまうんだ。まるで未来が僕を押し返すみたいに、答えが導き出せそうになるとそこまで進んだ推理ごと身包みを剥がされて、スタート地点に立たされてしまう。だから敢えてハズレの未来予想を延々と続けていったんだけど、ある程度のアタリの輪郭が見えてきた。それこそが
「なげぇよ……」
「貴重な情報ですわね」
「ジャン、何言ってるか分かった?」
「長いな、分かっても利益がないなら無用の長物だ」
シャーロックの一際長い発言は9割方不評ではあるものの、彼は確かに言ったのだ。
――『条理予知』。すなわち未来予知の領域まで踏み込んだ推理が完結しない、と。
しかし、恐ろしいとの話とは裏腹に彼の瞳は夢を追いかける少年のように、より一層世界の彩を取り入れるかのように開かれた。
この煌く瞳が盲目だと、一体誰が信じるものか。
「だからワクワクするんだよ。彼女達の行動は僕を驚かせ、不安にさせ、楽しませてくれる。そして未来の脅威に対抗するための一石となるんだ。僕とは違う視点から、思金は人類を守ろうとしている」
「答えて差し上げなさい、私も彼女の行動はずっと気になっていたの」
「はい、それでは――」
カツェは促されるまま、最後に残された1つの報告に手を掛けた。
「オレもソコには興味がある。事と次第によっては……」
「ジャン、荒れるのか?」
「だろうな、損失は免れない。だが、同時にビジネスチャンスでもある」
「あやつは認めた者以外とは話すら出来んからのぅ……十の災いの如く面倒な奴ぢゃ」
ざわざわと止まない声を咎める者はいなかった。
自分に聞こえるのは真実のみ、その他大勢の声など元より耳に入っていないのだ。
「うぅ……参加しないのにドキドキします。胸が張り裂けそうです」
「はっ!フランス出身の私は肩身が狭いってもんじゃねーの、そんくらい我慢しとけや!」
当然、同盟者だけがここに集っている訳ではなく、宣戦に直接関係のない者がいるのも仕方がない。
それでもこの会議には参加する意味がある。
3つ目のカウントが刻まれて、誰からともなく静寂が支配した。
音さえも、光さえも、時間さえも、その言葉を静止したまま待っている。
「3つ。『瑠槍の竜人』アグニ・ズメイツァ及びその配下は、娘のリンマ・ズメイツァスカヤの表明により不参加が確定の運びとなっています」
安堵の声、緊張を解かれた者たちは各々に忘れていた瞬きを再開し、止まった血流を動かした。立っていた者は座り込み、座っていた者は更に体勢を崩して、精神を蝕む溜まり込んだ深憂を吐き出している。
「ふむ、それは残念だ」
気丈に振る舞ってはいるが、彼の声には失意が表れていた。
しかし同時にもう1つの可能性が動いている事に対する喜色も少なからず含まれているのだ。
「して、カツェよ、無所属の者はスペインの思い主だけではあるまい?」
「どういう意味だ、パトラ」
「箱庭にはクロがおったはずぢゃ。同盟の件は終始渋い反応をしてばかりでの……よもや、どこぞの国とも結んでおらんぢゃろうな?」
「……あー、そうだったな、言い忘れてた」
その後に続けられた魔女の軽はずみな一報に、全員が肝を冷やすことになる……
―――――――――――――――――――――――――
ようやく到着した。散々文句を言ってすみませんでした。
でも、やっぱり不親切ですよね、この招待状。
"スタディオン"って書いとけばいいじゃん。
観光ルートで来た私が馬鹿みたいじゃないか!
眼下に広がる縦長の土地……いや、横長?どっちでもいっか。
そんな広大な面積を持つ壁に囲まれた競技場には、現代の競技トラックのような楕円型の岩に囲まれたスペースがあり、その中心には以前には存在しなかった大木が植えらえていた。
子供のいたずらにしては大規模すぎるし、あまりにも悪質。
目印のつもりだろうし、犯人は多分現場にいるのだ。
「イヤな予感が止まらない……」
本能があの場所に行く事を全力で否定してくるが、ここまで来て帰れない。
大切な仲間があそこにいるのだ、怖がることなんて何もないじゃないか。
そもそも行きたくないで行かなくて済むのなら、私は日本のカブチューになんて通ってなかった。
この学校生活を守る為なら、多少の無茶でもなんでもやってやるよ。
覚悟を決めて歩を進め……られないね。
悲しい事に覚悟の第一歩は、ワイヤーを伝って降りた先の着地。
なんか締まらない。すごく進んだ一歩に見えるけど、なんか締まらないよ!
近付けば近付く程、この場所の異常性に苛まれる。
10人前後の人型の者たちが互いを牽制し合うために、殺気やら覇気やら威圧やらを思う存分撒き散らすもんだから、身が縮こまって勝手に背中が曲がってしまう。
あんな奴らの視線を一斉に浴びたら体がバラバラにされそうだ。
そんな恐怖の感覚が私に1つの妙案を授けてくれた。
(そうだ!こっそりと近付こう!)
『
(はい、終わりーっ!)
ちょっと待ってください、チュラ。ここは端から端まで約150mあるんです。
確かにワイヤーで降りましたが、この夜闇の中で私と識別できた方法とは何なんですか?
改善したいので分かりやすく教えてください。
実際に100m先にいるチュラの声が聞こえたわけではないが、なんでだろう分かってしまう。
あの子は叫んだぞ、あの恐ろしい場所で、私の存在を高々と。
(ゔっ……気持ち悪くなってきた)
今度は気がしたのではなく本当に気分が悪くなった。
原因は他でもない、あの化け物共の意識が私に向けられたからだ。
視線で人を殺せるか?という問いに私は迷うことなくYESと答えるだろう。
感情が暴れて、内側から体を壊されるんじゃないかと真剣に考えてしまった。
(チュラ……私はここから先、この視線に串刺されながら歩いていくんですよ?勘弁してください)
それでも歩いて行けるのは、トロヤとの戦いを経験したからか。
遊びといえども彼女の殺気は今感じている恐怖と同等か、それ以上だったのだから。
もうちょっと、その少しの距離が思っていたよりも遠いのだ。
楕円状に並べられた岩を越えた瞬間から、薄い膜を越えたように中の様子がハッキリと見えるようになった。
どうやら箱庭の参加者の内、数名はあの大木の上に登っているらしい。
その証拠に、憎らしいほど無邪気な笑顔でこちらを見降ろしている可愛い我が
更にちょうど反対側にはいつぞやの狙撃手が人魚座りで空を見上げていて、少し離れた場所には気位の高さを表す
(小柄な子が多いな……どの子も油断大敵なんだろうけど)
不安に塗れた感情を表に出さないように、前を見て歩く。
大木の大きさは遠くで見ていたよりもはるかに大きいようだった。
その陰に立っている人物たちも段々とその姿を見せ始める。
「カナ」
「こんばんは、クロちゃん。あなたが来ることは何となく予想は付いていたけど……」
(格が……違うな)
どいつもこいつも出来る奴らばかりいるが、やはりカナの超人的なオーラはその中でさえ頭一つ飛び抜けている。
次の瞬間にバトルロワイヤルが始まってしまったとしたら、私がまずカナから距離を取ることは確実だ。
でもって……
「クロちゃん、ヤッホー!」
いたか、裏切者。なぜ置いて行ったし。
おかげさまで2度と行かないと決めていた丘で2度目の観光をしてしまった。
寂しかったんだよ!?
独りで夜のお散歩は悪くないなんて思ったのは最初だけだったんだから!
「何で一緒に行こうって誘ってくれなかったんですか?」
「だって時間ギリだったしー。ワンチャン、辿り着けなくならないかなーって」
わざとらしく、『ちぇっ』と呟くコイツは確信犯か。となると私の立場は予想済みなのね。
最近陽菜が周りをウロチョロしてると思ってたし、理子に会いに行ってたところを見られたかも。
「酷い相棒もいたものです」
「それー、クロちゃんが言うかぁ~?」
責めるようにも聞こえるが、ただの軽口である。
同盟の件は数日前に正式にお断りしたのだ、参加の有無はぼかしたまま。そしてその日から毎日会う度に、確かに一菜の気配はまた一段と別の存在へと変化を重ねている。
今日の宝導師演習の彼女は、フィオナも言っていた通り前衛により特化し、デコイ的な動きを意識していた。
日本代表の戦法は一菜前衛、陽菜中衛、槌野子後衛、おそらくもう1人の子供も中・後衛なのだろう。
「1人ですか?」
「ここには代表者1人しか入っちゃいけないんだよ。一応兎狗狸ちゃんが外で控えてくれてるけどね」
そういう事か。
だったらこの場で即戦闘!って事態にはならなさそうだね。よかったよかった。
安心したところで周囲の観察を再開する。
ヒルダやリンマの所も来てるだろうし、挨拶くらいしておかないと焦げ臭くされたりしちゃうかも。
(――?……ッ!?)
見間違いじゃないよね?何でここにいるのさ。
ヒルダがいた。いや、彼女は別にいても不思議じゃない。
相変わらず全身真っ黒のドレスに身を包んで黒い傘を差している。
真っ白な肌と鮮やかな金髪が、闇の中でさらに美しさを増していた。
しかし、いつも優雅な姿勢を崩さない彼女は、
おーい、本性出ちゃってますよー?
「ヒルダー、お腹すいたー」
隣はリンマ。ここも予想通り。
服装は武偵中の制服ではなく、オシャレな儀礼装束風のスカートで戦闘用の衣装ってわけではなさそう。
気にかかるのはその腕に抱いた槍。
過去に牢屋内で襲われた時に放っていた謎の液体の色と同じ、つまりアレも彼女の能力で作り出した物なのだと思う。
「あぐあぐ……味がしなーい」
(槍食うな、キャンディーじゃないんだから)
そう、この並びなら次は占い師のパトラだよね?
……あなたはだぁれ?
「"さむい……んじゃぁ"」
目を引くのは黄金の扇子だが、それを取り除いても十分目立つその人物は日本の巫女服のような紅白袴で地面に倒れるように座り込んでいた。
頭の右側から黄髪が弾けているって言っても通じないだろうがホントそれ。強いて例えるとするなら髪自体がミルククラウンみたいに跳ねて、その中心から一筋のサイドテールが飛び出してる感じ。
「"くらい……んじゃぁ"」
ガチガチと歯を鳴らし、白い肌を青白く変色させて泣き言を言い続けている。
あの人を代表者に選んだ人はしっかりと謝った方が良いと思う。気の毒に……
スルー推奨の表示が脳内に浮かび上がったので更に隣、ここが問題だ。
そう来たかって感想が強い。
「やあ、クロさん。こうなることは予想出来ていたかい?」
「ええ、まあ。ありえなくはないと思っていましたよ。パトリツィア」
網膜に灼き付くようなデンテ・ディ・レオーネの髪にブルーの瞳、良く仕上がったスタイルに自信に満ちた表情。
紛れもない私の天敵と相成ったフォンターナ家の長女だ。
ここのメンツとつるんでいる事は知っていても、箱庭とも繋がっていたとはね。
――あれ?じゃあ、イタリアってどっちが代表?
もう一度シスターの方を向いてみるが、あの服はバチカンのものだろう。
どうしてだ?考え付くのは私闘争と内部分裂の単語。まあ、どちらにせよ、その2者間に仲間意識はないからこそそうなった訳で、対立する理由も明らかか。
「私の言葉を覚えているかな」
「黙秘させて頂きます」
思い当たる節はある。
入学した月にお邪魔したティーパーティーで、『末永く仲良くしたいものだ』と遠回しな勧誘をされていたのだ。
その頃から目を付けられていた事には驚きだが、素気無く断っておく。
パトリツィアは私の返事に満足とも不満とも取れない態度で笑顔のままそっぽを向いた。
「ふん、知らないよ。あなたが何を考えてその立場を選ぶのかは分からないしね。ただ、アリーシャがとても心配していたんだ、少し妬いてしまうな」
「相変わらず仲良しそうで私は安心しましたよ。仕事以外であなた達姉妹が話しているのをここ十数日見掛けませんでしたからね」
「お互い余計な詮索は無用か……うん、嫌な記憶を思い出したよ」
「その割には嬉しそうにも見えますが」
「ああ、その通り。祝福すべき記憶でもあるからね」
出た出た、パトリツィア節。
読解難易度は不思議ちゃん代表のチュラよりも下。(専門の研究者が必要なレベル)
←ここらへん
理解している常識を彼方に投げ飛ばした一菜よりも上だ。(翻訳機が必要なレベル)
そんなもんに付き合ってらんないよ、まだ観察が終わってないんだから。
「はいはい、妹さんには宜しく伝えておいてくださいね」
適当な締め括りで更に隣、ここも知らない人物が実に整った物腰で、強者の風格を漂わせている。
あちこちから肌を露出させており、足元も踵のあるサンダル、ハナから戦う気が無い私と同じタイプかな?
動きやすい服装と金属製の手甲をはめている点から、接近戦の使い手である可能性が高い。
「……」
いや、物足りないとか思ってない。
寧ろ今まで誰もが何かしらのアクションを起こしていたのがおかしいのだ。
黙って待っている彼女こそ、真に正し……
「……くかーzz」
(…………)
……さて次で地上にいる人はラストかな?
ってか、これは人かな?
「フガー……」
頭に避雷針みたいなのが立ってるんですけど?
ずっと白目なんですけど?
「ウガー……」
身長が2m50cm位ありそうだよね?
肌の色が限りなく緑に近いよね?
「プシューッ!ガオンガオン……」
人体って背中から排ガスが排出されるものなの?
体から駆動音ってするものなの?
(せめて人を代表者に選ばんかい!)
地上=ヒルダとの同盟者だとすれば、突っ込み待ちの芸人集団でしかなかった気がする。
大丈夫かな、この集団。
観察して後悔した。
忘れよう、顔以外。
パトリツィアに視線を戻して目配せした後、カナの隣に並び立つ。
この中で確実な仲間であるのは彼女しかいない。チュラでさえ、国の代表として立場を変えるのかもしれないのだから。
「クロちゃん、今夜は大人しくしていなさい。スイッチを切って私の隣から離れないように」
「?それってどういう――――」
――突如、全員の首に鎌が掛けられた――
脂汗が吹き出して止まらない。
辺りを見回す為に首を動かそうとすると、後頭部に銃口が、心臓の位置に包丁が突き合わされている。
(動けば……殺される!)
いつの間にか両脚は有刺鉄線でグルグル巻きにされ、その上を小さな蟲が這い回って太腿に無数の切り傷を貼り付けて行く光景に吐き気を催した。
目を閉じても景色が変わらない。左肩に違和感を感じて意識を集中させると……凍ったように体温が下がっている……!
(――これは現実じゃない。濃密な殺気が自分の死をリアルに幻視させるほどに強烈なんだ!)
だが、分かっていてもこの殺気から逃れる術を見つけ出せない。
こうしている内にも私の左肩は……!
体が切り離されていく感覚。
これはどこかで?
(この能力は、トロヤと同じ。なら――)
左肩の感覚が消えたそのタイミングで、私の意識は世界を渡る。
最後に感じたのはバターと蜂蜜の甘々な匂いだ。
内側の世界、30枚もの窓枠がズラリと並んだその空間は真っ黒なドロドロとした液体で溢れていた。冷凍室の中に閉じ込められたらこんな気分になるのだろう、温度はマイナス20度に届こうかという所で冷気に晒された肌がヒリヒリする。
(チュラも容赦なくくっついて来ましたね)
もはや足の踏み場もない。
踏み出すごとに足が氷水の沼に沈み込んで行き、冷却された足が痛むほどだ。
動きを止めることなく歩き続け、漆黒の窓枠の前に到達する頃には足の感覚も無くなってしまい、その様は雪山の遭難者と間違われても言い返すことは出来そうにない。
そして唯一正常な右手を、嫌々ながら窓枠の中に突っ込む。
ねっとりとした感触、手首から千切れるほどに体が過冷却される。
「さあ、起きてください。私たちの可愛いチュラが待っていますよ」
このセリフも何度目だろうか。
握手を返してくれた向こうの私も起きているんだから必要性を感じないんだけど、なんでか毎回忘れずに言ってしまう。
「助けを待っているのは私の方のようですが?」
「うまく抜けられそうですか?」
「無視かー……でも抜けることは容易ですよ。チュラちゃんと私の力を合わせるんです!」
「あなたの得意分野ですよ」
「馬鹿にしてますか?」
「いえいえ、頼りにしてます!」
今回もまた、私の力だけではどうしようもない。
素直に仲間の力を借りる、それが私の強さの秘訣なのだ。
「チュラちゃん、反射をお願いします」
私はいつも損な役回りを押し付けられているのではないだろうか?
初めては激痛と共に体に穴を空けられてたし、ある時は現出と同時にカナの鉄拳、またある時は暴走車の屋根の上で木の枝に全身をボコボコにされながらのカースタント、それで今回は死に囲まれての最悪な目覚め。
ピンチだからお呼ばれしている事は承知しているけど、たまにはチュラとゆったりのんびり過ごしてみたいものです。
額に当てられた温かな感触によってもたらされる心の平安がそんなゆるーい思考を手助けしてくれる。
チュラの手がおでこの熱を測るみたいに添えられて、左肩に浮かぶ描きかけの紋章を跡形もなく消し去ってしまったのだ。
鎌は錆付いて朽ち果ててしまい、銃は銃弾を詰まらせて暴発と共に消滅してしまったようだ。
包丁は使い手を失って落下して足元の有刺鉄線を裁断し、小蟲は力尽きて風に流され破裂するように発火して焼失した。
悪夢は醒めたのだ。
しかし、いかにリアルに再現された恐怖であろうと、トロヤの非現実的で理不尽な暴力の悪夢に比べれば我慢のしようもある。
私は死の恐怖よりも死後の世界、天国でのご先祖様の鉄拳制裁か地獄責め苦の方がよっぽど恐怖を抱いてしまうものだし。
殺意から解放された視界に最初に映ったのは言うまでもない。
「おかし1つー!」
元気いっぱいな笑顔を振りまく愛しきチュラ。
私は彼女を支える為に現出しているというのに、またしても助けられてしまった。格好がつかないけど、彼女の求めるモノこそこの現状であると言えるのだから、複雑な気分である。
「一体誰がこんな子に……」
"おかし1つ"というのは前にクラスの男子が「貸し1つな」と話していたのを聞いて覚えて来たらしい。
何故か頭に"お"がついて現品支給を求める物乞いになってしまっているが、別にお菓子が欲しい訳でもなく、お祭りのワッショイと同様のノリみたいだ。
この癖がなかなか抜けない。
早く直してあげたいのに、かなりのお気に入り単語として定着した。
おのれ犯人め、見付けたらただじゃおかんぞ!
「クロ、無事?痛むところとか、痺れは残ってない?」
古傷――古紋章?が疼くことは今までなかったが、もしかしたらと気が気でない様子だ。
「問題ありません、カナ姉様。それと、申し訳ありません、スイッチはおろか
「不可抗力よ、あなたが気に病むことはないわ。でも、ふるいにかけられた脱落者は1人だけのようね」
「脱落者……?」
カナの見つめた先木の枝の1本に、白地に花柄刺繍が施されたブラウスを色とりどりのリボンで飾り付けた女性がぐったりしたままぶら下げられていた。
人間が無造作に、タオルを掛けるみたいに適当な扱いで干されていたのだ。
息をしていない。
あの民族衣装をまとった存在は、意識を埋められてしまったのだろう。深く深く、
「……カナ」
「主が来た、もう手遅れだったのね。そのままの状態で構わないから、一瞬も気を抜いてはダメよ。彼女は――」
カナの額に汗が滲む。
その顔に余裕など微塵も感じられない。
(なんで……あなた程の強者が、一体何を恐れているんですか?)
この中で誰よりも強い存在感を放ち、私が永遠の目標として掲げた最強の戦士が……
声を震えさせているのだ。まるで獅子に挑む矮小な子犬のように、修羅に挑む病弱な少女のように。
その場所に現れた深淵に釘付けとなって捻じれ、儚く散ってしまいそうで。
その第一声に、この世界は支配された。
ようこそ、箱庭の宣戦へ。まずはご挨拶と致しましょう
一言一言が心を打ち、その絶対的な
今宵は海よりも深く、空よりも広く、樹々よりも多く、川よりも長く、山よりも高い
永遠の歴史を紡ぐ貴殿らの参加を心より奉迎致します
世界が求めるあらゆるものも、夢も希望も絶望も
その歴史すらも彼女の前では子供のラクガキに過ぎないのだろう。
ワタクシに名は御座いません
そう、彼女こそが……
どうか、ワタクシの事は『箱庭の主』とお呼びくださいませ
主だ。